レジェンド・朝原宣治が明かす日本リレーのバトンパスの「極意」 (2ページ目)

  • 佐久間秀実●取材・文 text by Sakuma Hidemi
  • 谷本結利●撮影 photo by Tanimoto yuuri

――2005年の世界陸上(フィンランド・ヘルシンキ)にも出場しましたが、その時もモチベーションは上がっていなかったのですか?

「そうですね。2005年に入っても緊張の糸は切れたままでしたが、その年の日本選手権の100mで2位になり、世界選手権ではリレーで8位に入ることができた。その時に、2007年に大阪で開催される世界陸上まで全力でやって引退しようと決意したんです」

――2008年の北京五輪ではなく、大阪での引退を考えていたんですね。

「2007年に向けて練習計画を立て、引退後のことも考えて2006年から同志社大学の大学院に通って勉強も始めました。午前中に会社で仕事をして、午後に少し練習をしてから大学院に行くという生活を繰り返し、その年の冬から気持ちと体力を上げていった感じです。

 迎えた世界陸上のリレーで、質のいいバトンパスをして5位に入り、38秒03のアジア記録を出すことができたんです。その頃には、僕の体の状態も世界で戦えるレベルに戻り、気持ちが再びグッと上がってきたので、勢いそのままに北京五輪を目指すようになりました。北京を最後の五輪と決め、『気持ちよく引退したい』という思いがあったので、余計なことを考えないで陸上に集中できたと思います」

――その北京五輪のリレー決勝では、さらに見事なバトンパスで表彰台を獲得しました。

「北京に向けて、バトンパスは『冷静に対処すること』『躊躇しないこと』を心がけていました。勝負をかけないとメダルを獲れないと思ったので、本番では次走者の加速を殺さないよう攻めのバトンをやりました」

当時を振り返る朝原氏当時を振り返る朝原氏――そのバトンをつないできてくれた、リレーメンバーの印象を教えていただけますか?

「(第1走の)塚原(直貴)くんは気持ちで突っ走る、悪い言い方をすると"扱いにくい"後輩でしたね(笑)。今は"いいパパ"になりましたけど、当時はトンがっていて、熱い気持ちが抑えきれず急に叫んだりしていました。逆に、気持ちが乗らないと練習をやらなかったり、練習の邪魔もしたり(笑)。それでも爆発力は目を見張るものがありました。

(第2走の)末續くんは、本当に大事なところでものすごい力を発揮する選手でした。2007年あたりから体調がよくなくて、北京でもキレがいいとは言えなかったんですが、リレーで頑張ってくれましたね。末續くんは塚原くんの大学の先輩で、塚原くんをコントロールできる唯一の存在でした。塚原くんのやる気が出るように、よくハッパをかけてくれていたのを覚えています。

(第3走の)高平(慎士)くんは、メンバーの中で1番真面目でした。コーチたちの話をしっかりと聞いてくれて、集合時間を僕らに教えてくれたり、事務局的な役割もこなしてくれて(笑)。コーナーの走りもすばらしかったですし、チームをしっかり支えてくれました」

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