北京五輪リレー、栄光の舞台裏。末續慎吾は「早く帰りたかった」 (3ページ目)

  • 佐久間秀実●取材・文 text by Sakuma Hidemi
  • 佐藤博之●撮影 photo by Sato Hiroyuki

――そのような状態で、2008年北京五輪を戦ったのですね。

「大会2週間前にケガをして状態はよくなかったんですが、周囲は僕のことを『何かとんでもないことをやってしまった人間だ』と思って期待している。僕自身も何かしらの可能性を感じていて、その期待だけを胸に戦いました。今思えば走ることは無理だったんですが、病気というか、狂気の状態でしたね」

当時を振り返る末續氏当時を振り返る末續氏――それでもリレーでは銅メダル、後に繰り上がっての銀メダルを獲得するわけですが、末續さんの東海大学の後輩でもある、第1走の塚原直貴さんはどんな選手でしたか?

「彼は、自分の決めたことに対して一直線に進む"一本気"な人間ですね。僕と一緒にトレーニングをして、メキメキ力をつけていきました。その中で、僕の本当の思いが伝わらないこともあったし、僕のいい部分だけじゃなく、悪い部分が伝わってしまったこともありました。彼は僕を尊敬してくれていましたが、僕を『超えたい』と思っている選手に対して、どういった言葉をかければいいのかを考える時期もありましたね」

――第2走の末續さんと、第3走の高平慎士さんとのバトンパスは見事で、アンカーの朝原さんにいい流れをつなぎましたね。

「高平くんは常に冷静に状況判断をする選手でした。僕はわりと何でも真正面から受け止めてしまうんですけど、彼はダイレクトにはストレスを受けずにバランスを取っていた。難しい状況になっても飄々(ひょうひょう)としていましたし、リレー走者としての相性はよかったかもしれない。お互いにコントロールしやすいところもあったと思います。

 アンカーの朝原さんとは、2000年からずっと一緒に走ってきました。朝原さんはマイペースを貫いていましたから、バトンをもらって渡すことを考えなくちゃいけない第2走と第3走より、バトンをもらってゴールまで駆け抜けるアンカーに向いていたのかなと思います」

――レース後の心境はいかがでしたか?

「僕はそこまでうれしくはなかったです。当時の心境はそれどころではなく、早く日本に帰りたかったですから。世の中の人たちが考えているような華やかなものではなかったですよ」

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