北京五輪リレー、栄光の舞台裏。末續慎吾は「早く帰りたかった」 (2ページ目)

  • 佐久間秀実●取材・文 text by Sakuma Hidemi
  • 佐藤博之●撮影 photo by Sato Hiroyuki

――2度目の五輪、2004年のアテネ五輪はいかがでしたか?

「世界陸上の銅メダル以上の成績を求められましたが、200mには出場しませんでした。当時は『100mに専念する』と宣言していたんですけど、実際は、あまりにも荷が重くて背負うことができなかったんです。戦えない姿を周囲に見られることが嫌で、その後もけっこう引きずりました。人生で初めて逃げた瞬間でしたが、競技者として自分を保つために"防衛"していたのかなとも思います。

(アテネ五輪本番は)ケガで靴も履けないほどの痛みがあったので、痛み止めの注射 を何発も打ちました。そもそも走れる状態ではなかったんですが、痛みに耐えながら出場する先輩方を見てきたので、僕も無理をして走りました。だから、痛い記憶しかないんですよ。リレーで4位となりましたが、『惜しい』というより、ただ『走れてよかった』という思いでしたね」

――翌年の、フィンランドのヘルシンキで行なわれた世界陸上で、200mに復帰した理由は?

「やっぱり、立ち直ろうと思ったんじゃないですかね。でも、一度200mから逃げてしまったので、なかなかコンディションが戻らなくて空回りしていた。競技に取り組む存在価値を求めながら無茶をしていたので、またケガもしました」

――それでも、2006年のワールドカップ(アテネ)では、4×100mリレーと200mで3位という成績を収めました。

「その時から2008年に入る頃までが、もっとも自由に走ることができた時期だと思います。ケガも続いていたので練習量を減らし、必要最低限のことをやっただけ。この時に、『こういうふうに走りたい人間なんだな』と、気づくことができました。その頃は、100mの9秒台と、200mの19秒台を期待されるのは僕しかいなかったんですが、一時的に緩和された時期でした」

――2008年の北京五輪にはどうつながっていくのでしょうか。

「2007年の大阪での世界陸上は、大会が国内ということでモチベーションが高かったですね。だた、20歳の頃から国際舞台で走り続け、ケガを押して無理してやっていたので、『来年(2008年)まで体が持つかな?』と思うようにもなりました。走る気力と体力がない状態でしたから、北京五輪の前には、代表のコーチ陣に『ちょっと休みたい』と意思表示をしていたのですが、『君がいないとダメだ』と言われたので、『仕方ない』と。五輪を辞退することで"ひとり"になってしまってもいいから、『やめる』と言えばよかったかなと、後に思いました」

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