『陸王』が掘り起こす「幻のハリマヤシューズ」もうひとつの職人物語 (5ページ目)

  • 石井孝●文・撮影 text & photo by Takashi Ishii


 マラソン足袋でいくか、それともシューズでいくか。

 金栗にとってこの選択は、大きな賭けだった。もしここで惨敗するようなことになれば、日本マラソン界はせっかくここまで積み上げてきた実績を失ってしまう。そして、勝蔵にとってもそれは、ハリマヤの社運を賭けた大一番となった。

 金栗と勝蔵の2人はこの賭けに勝った。日本人の足型に合わせて"しゃもじ"のように大きく膨らんだシューズで、山田は2年前の田中の記録を10分近くも縮める、当時の世界最高記録で優勝という偉業を達成したのだ。

 黒坂辛作がつくった金栗マラソン足袋と、それをもとに息子・與田勝蔵がつくったカナグリシューズ。名声や栄光という意味では、この頃がハリマヤの絶頂だったのかもしれない。やがて高度経済成長期を迎え、"戦後"が遠くなるにつれて日本社会は豊かになり、人々がシューズに求める要素も、よりファッション性の高いものに変化していった。

 スポーツ用品店にはきらびやかな海外ブランドと日本の大手メーカー製シューズがズラリと並び、派手な色使いやデザインで消費者の購買意欲を刺激した。そのなかに入れば埋没してしまうハリマヤは、実直に機能性を追求することに活路を見出し、「陸上部員御用達」「部活のシューズ」といった趣(おもむき)を強めていく。

 それでもハリマヤは根強いファンに愛され、地味ながらも堅調に見えた。勝蔵から誠一に社長が代替わりすると、新潟に生産工場を設けて、体育シューズなど学用品にも販路を広げていく。

 そこにバブルがやってきた。

 ハリマヤ末期の事業は誠一を含む男兄弟3人で経営していたが、バブル景気のさなか、銀行が次々と持ってくる融資話に乗って一族は不動産、ホテル、飲食業など新しい事業に手を出した。それぞれ、勝算や思惑はあったのだろう。しかし、バブルがはじけたとたんに、すべては消えてなくなった。

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