『陸王』が掘り起こす「幻のハリマヤシューズ」もうひとつの職人物語 (2ページ目)

  • 石井孝●文・撮影 text & photo by Takashi Ishii


 そもそも與田勝蔵とはいったい誰なのか。少し説明が必要だろう。

 1903年(明治36年)、東京・大塚でハリマヤ足袋店を創業した黒坂辛作には二男二女の子供がいた。一方で妻の実家である「與田」家には跡継ぎがおらず、夫妻は與田姓を残すために長男と長女を養子にすることにした。そのため辛作の長男・勝蔵は與田勝蔵となったが、それは単に戸籍上のことで、本人はそんな事情を知ることなく他の兄弟とともに暮らし、成長した。

 驚くべきことに、勝蔵は妻をめとるまで、自分が與田姓であることを知らずにいたという。だが、当時の日本ではこのような例も、さほど珍しいことではなかったのだ。

 勝蔵は1923年(大正12年)に学業を終えると、マラソン足袋をつくる辛作の跡取りとして家業に入った。不幸なことに辛作は事故で足を不自由にしてしまい、辛作の代わりに箱根駅伝やマラソン大会の現場に出向くのも勝蔵の仕事となっていった。

 家業を通じて、勝蔵は自然と"日本マラソン界の祖"と呼ばれる名ランナー・金栗四三(かなくり しそう)との関わりを深めていく。辛作にマラソン足袋をつくらせた金栗は、日本が初めて参加した1912年(明治45年)ストックホルム五輪のマラソン代表選手で、グリコのマークのモデルであり、箱根駅伝の創始者でもあり、今も大会MVPの「金栗四三杯」にその名を残している。

 勝蔵は仕事に没頭するなかで、いずれ自分も辛作のマラソン足袋のように長く人々に愛されるものをつくりたいと、自分の将来を思い描いた。

1936年の新聞に掲載された黒坂辛作(右)、與田勝蔵の親子1936年の新聞に掲載された黒坂辛作(右)、與田勝蔵の親子
 終戦から3年たった1948年(昭和23年)、辛作は長男に家督を譲り、事業も「ハリマヤ運動用品株式会社」と改めて、與田勝蔵が社長となった。辛作68歳、勝蔵43歳のときである。戦後、人々のスタイルが和装から洋装へと様変わりするなか、勝蔵もマラソン足袋からマラソンシューズの製造へ舵を切ろうとしたのだ。

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