ドラマ『陸王』に通じる日本のシューズ職人魂。あるスポーツ店の物語 (3ページ目)

  • 石井孝●文・写真 text and photo by Ishii Takashi


 日体大時代にハリマヤのシューズを愛用していた谷口浩美もまた、シューズ開発に助言をしたひとりだった。

「高校時代は練習で使うシューズを試合でも履いていたでしょ。だから、1足でジョギングもできてレースも出られるシューズを作ってくれますかってお願いしたんです」

 しばらくして市販されたのが「ホノルルスカイフォーク」というランニングシューズだった。ソールがレース用よりも少し厚く、ジョギング用よりも少し薄い。想像以上のポテンシャルに谷口は好んで履いたという。

 1971年、ニクソンショックによる変動相場制への移行をきっかけに急激な円高になると、大半の製造業がそうであったように、ハリマヤの工場もアジアに進出し、中学・高校用の廉価な体育シューズの生産を始めた。ハリマヤのロゴと3本ラインは同じだが、中身はまったくハリマヤのシューズではない。

 職人気質の強い生産現場は、「なぜメイドインジャパンを貫かないのか」と強く反発した。その結果、学校に数百足単位で納品する体育シューズは生産コストの安い海外製に切り替えたものの、それ以外の競技者用や市民ランナー用のシューズは依然として国産へのこだわりが続いた。

「70年代当時、シューズだけで5〜6億円の売上はあったと思います。各地の工場の職人さんたちも入れれば、従業員300名はいたんじゃないでしょうか」(千葉)

 ハリマヤは長距離用のシューズだけでなく、短距離用のスパイクにも力を注ぎ、陸上競技専門のシューズメーカーに特化していった。しかし、レクリエーションとしてスポーツを楽しむ層にはなじみが薄く、どこか二流の国産シューズのように見られてしまう。

 そもそも、多様な競技向けにシューズもウェアも展開する総合スポーツメーカーのオニツカやミズノと、陸上競技専門のハリマヤとでは資本力も宣伝力も違った。まともに戦っては勝負にはならない。

 そこで千葉は、国体や高校総体など陸上競技の大会を精力的に回って販売促進に努めた。金栗四三に師事した陸上関係者もまだ全国に大勢いる頃で、金栗の名を冠したシューズは通りがいいという利点もあった。

「1970代、私は販促担当として全国高校駅伝の出場選手にニューカナグリを使ってもらうために、各地の高校を回りました。一時はニューカナグリの使用率が50%を超えていた時期があったんです」

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