ドラマ『陸王』さながら、かつて日本の足袋が世界のマラソンを制した (5ページ目)

  • 石井孝●文・撮影 text & photo by Takashi Ishii


 ところで、ストックホルムオリンピックで思わぬ失態を演じてしまった金栗は、現役時代、その後のオリンピックで雪辱を果たせたのだろうか。

 1914年(大正3年)に国内の25マイル(約40km)レースで2時間19分20秒3の驚異的な世界最高記録を出した金栗だったが、その2年後のベルリン五輪は第一次世界大戦の影響で中止になってしまった。
 
 2度目の五輪出場となった1920年(大正9年)のアントワープオリンピックでは、終盤4位まで順位を上げながら、ストックホルムとは逆に低温で脚のけいれんを起こし、無念の16位で終えている。1924年(大正13年)のパリオリンピックにも出場したが、34歳の金栗はすでにマラソンランナーとしてのピークを過ぎており、32km付近で途中棄権となった。

 国内では最強を誇り、金栗を破る者はついに現れなかったが、オリンピックでは思うような結果を得られなかった。金栗は、その名を冠したマラソン足袋の栄光とは対照的に、自身は無冠のまま現役を終えたのだった。

 1967年(昭和42年)、75歳になった金栗のもとに、スウェーデン五輪委員会からストックホルムオリンピック55周年記念式典への招待状が届いた。現地では、林に迷い込んでそのままコースに戻らなかった金栗の公式記録は「棄権」とはなっておらず、レース中に「消えたランナー」として謎めいたまま語られていたのだ。

 金栗を招待するにあたり、スウェーデン五輪委員会はある"舞台"を用意していた。式典に出席した白髪の金栗に、競技場を走れというのだ。仕方なく金栗はコート姿のまま競技場を走り、そのままゴールテープに飛び込んだ。するとそのとき、場内にアナウンスが響き渡った。

「日本の金栗選手、ただいまゴールインしました。タイム、54年と8カ月6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルムオリンピックの全日程を終了いたします」

 心憎い演出に、マイクを向けられた金栗の言葉もまた実にウィットに富んでいた。

「長い道のりでした。その間に嫁をめとり、子供6人と孫が10人できました──」

(つづく)

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