伝説のシューズ職人・三村仁司が語る「マラソン五輪メダルの裏側」 (5ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi  杉原照夫●写真 photo by Sugihara Teruo

 そこで本人と2時間ほど話をしたあと、三村はソールをすべてはがしてクッション性のある厚い物にし、インナーソールもバネのある素材に換えた。さらに痛みのある踵の部分には衝撃を緩衝する素材を入れる工夫をした。

「正直ダメだと思っていたから、36㎞過ぎで(ワレンティナ・)エゴロワ(ロシア)とトップ争いをする姿が競技場に映し出された時はビックリしたし、何かが胸に込み上げてくるような感じでした。2位で競技場に入ってきて、悲壮な顔で最後まで食らいついている姿を見て涙が止まらなかった。自分が銀メダル獲得に貢献できたことより、あの状態で走りきった有森の精神力のすごさに感動していました」

 もうひとつの忘れられないレースが00年のシドニー五輪だ。その前年の世界選手権で、優勝候補だった高橋尚子は左脚付け根の靱帯の痛みが引かず、欠場を決めた。そのとき三村は連日マッサージをしていて、高橋の左右の脚の長さが違うことに気がついた。翌年の4月、五輪代表に決まった高橋の脚を詳しく測定すると、脚の長さが8㎜違っていた。

 その矯正のためにと左右のソールの厚さの違うシューズを作り、彼女が合宿しているアメリカのボルダーに持っていき感触を試してもらった。だが、本人からの回答は「違和感があるから、同じ厚さにしてほしい」だった。

「そこでは『しょうがないな』となったのですが、帰りの飛行機の中でずっと考えて、黙ってやるしかないなという結論を出しました。

 でも、難しかったですね。高橋の場合は接地面のクッションで走るタイプだから、厚さを変えたことがわからないようにクッション性も同じにしなければいけない。だから考えに考えて、構造を変えたんです。それは社長にも言えなかったし、失敗したら責任を取らなければならないと思い、靴を持ってシドニーへ行くときは辞表も用意していました。

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