「脚が壊れても」。五ヶ谷宏司の東京マラソンにかける思い

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 五十嵐和博●写真 photo by Igarashi Kazuhiro

 さらに強い影響を受けたのは、実業団1年目にボルダーで行なわれた日本陸連の合宿だった。これから本格的にマラソンを始める選手たちを集めたもので、五ヶ谷はJR 東日本の監督が「1年目でマラソンをやらせる」と推薦する形で参加した。

 そこには、今井やロンドン五輪マラソン代表になる山本亮(佐川急便)などがいた。一番年下だった五ヶ谷はそんな選手たちの中で可愛がられ、彼らが五輪や世界選手権へ懸ける思いや出場するためにどうすればいいかなど、熱く話すのを聞いた。そんな中で「同じところを目指さなければ、みんなの仲間入りは出来ない。この人たちと一緒にトップで勝負したい」という気持ちが高まっていった。

 だからこそ、初マラソンだった11年3月のびわ湖で、2時間12分07秒を出して10位になり新人賞を獲得した時も、周囲から褒められても満足できなかった。そんなモヤモヤした気持ちを晴らすために出場したのが、同年10月のシカゴマラソンだった。気象条件も悪く記録は2時間12分15秒に止まったが、初めてのワールドメジャーズマラソンで7位。実力のある松宮隆行ら、日本人選手を抑えての日本人トップという成績で、マラソンに対して自信を持てるようになった。

 その後は「いい結果が出ると我慢しようと思っていても、ちょっとしたところで甘えてしまう性格なので」と苦笑するように、足踏みの時期が続いた。特に13年8月の北海道マラソンで優勝してから臨んだ同年の福岡国際マラソンは、2時間23分00秒と惨憺(さんたん)たる結果。「準備不足で2回くらい歩いてしまい、マラソンはもう嫌だと思うくらいだった」と言う。

「そこから、14年のフランクフルトへ向けては、異常と言われるくらいの練習をして『これは絶対に2時間8分台は出る』と思えるほどに仕上げたんです。でも本当は前の週のアムステルダムに出る予定だったのが書類ミスで出国できなくなり、4日前に出場をキャンセルしてフランクフルトに変えたんです。それでも自己ベスト(2時間11分43秒)が出たので、これなら8分台も簡単に出せるかなと自信を持てました」

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