【陸上・競歩】大利久美単なる「青春の思い出作り」から手にした五輪切符 (2ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

 それから、大利がマネをしたという先輩に、競歩の動き、ドリルまで、すべてを教えてもらった。さらに、レースで知り合った他校の先生からアドバイスを受けると、すぐにいい記録が出た。

「自分の知らない世界で、すべてが新鮮だったんです。何をやっても伸びる時期だったから、県大会、関東大会、全国大会とどんどんステップアップしていって、すごく楽しかったですね」

 高校3年生の4月には、3000mの男女混合レースで13分47秒58を記録。高校ランキング2位に相当するタイムで、インターハイにも駒を進めた。だが、大会直前に足首を捻挫。本番は予選落ちに終わった。

「初めて『悔しさ』というものを味わいました。おまけに、その後の国体では、5000mで1学年下の渕瀬さん(のちの日本記録保持者)に僅差で負けて2位。そのときの渕瀬さんを見て『優勝って、もっと楽しいものなんだろうな』と羨ましくなった。それでもうちょっと(競歩を)続けたいな、と思いました」

 大利にとって競歩が、楽しいスポーツから『競技』へと少しだけ変わった瞬間だったかもしれない。そして、日本女子体育大に進学し、競歩が"世界"へとつながる競技であることを知った。同時に、五輪種目であることも初めて教えられたが、大利の中でその現実味は当時まったくなかった。

自分の性格は「熱いほう」だと語る大利。「でも、それを表に出すことはあまりないですね」自分の性格は「熱いほう」だと語る大利。「でも、それを表に出すことはあまりないですね」ドラマチックなことは一切なく
地味にコツコツやってきた

 大学で本格的な指導を受けるようになった大利は、さらに成長した。関東インカレ1万mでは2年生のときから3連覇を果たした。だが、全日本インカレでは、渕瀬に一度も勝つことができなかった。

「それがすごく悔しかったですね。特に4年生のときはキャプテンでしたから、終わったあとは号泣しました。(個人練習をしていて)大学ではあまり練習に出ていなかったので、監督には『結果で示せ!』と言われていたんです。それなのに、結局2位。もうほんと、情けなかったというか......」

 そのため、大学卒業後、富士通陸上競技部に入った大利は、「私が富士通のような大きな会社のチームに入っていいのかな......」という負い目を感じたという。大学で日本の頂点に立つことはなく、実績と言えるのは、北京五輪代表選考会の日本選手権4位で五輪参加A標準をクリアしたくらいだったからだ。

 一方で、危機感もあった。2008年に入社して、会社との契約は2年更新。その間に結果を出さなければいけないと思っていた。そして、同年12月1日付けで女子競歩の第一人者である川崎が富士通入り。大利の危機意識は一段と増した。

「川崎さんが来る1週間前くらいに初めて知らされて、『えッ、川崎さんが!?』と、もうビックリ。五輪に2回も出ている憧れの人が、同じチームに入ってくるんですよ。それどころか、寮で私と同じ部屋に住むことになったんですから。でもそれは、うれしい出来事でしたけど、やはり半面、ショックも大きかったです。自分がまだ活躍していない状況でしたから、富士通の競歩と言えば『川崎さん』ということになって、私は完全に陰に隠れてしまうだろうな、と思いました。実際、数年間はそういう状況でしたけど、あのときは本当にヤバイというか、焦りを感じましたね」

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