ブラインドマラソン青木洋子は有森裕子の言葉で奮起「パラ五輪を目指す」 (3ページ目)

  • 星野恭子●文 text by Hoshino Kyoko
  • 吉村もと●写真 photo by Yoshimura Moto

 また、遠方から大分に駆けつけた応援団にも感謝する。家族や友人、所属企業などから約30人が沿道のあちこちから青木を声で励まし、後半の粘りを支えた。とくに、「およ!」と呼びかけられると、知人からの声援ということがわかるので、「テンションがどんどん上がっていきました」と振り返る。

 もちろん、練習の積み重ねも好走の要因だ。「これまでと同じことをやるだけでは結果は変わらない」と新しい試みも取り入れた。昨年の別大後、オーバートレーニングで左シンスプリント(脛骨過労性骨膜炎)を起こし、数カ月はほとんど走れなかった。代わりにパーソナルトレーニングを取り入れ、柔軟性や体幹の強化など基礎的な体作りに取り組んだ。

 左右差のある足のサイズに合わせてシューズもカスタマイズした。パーソナルトレーナーは青木のために動きの説明をテキスト化したり、伴走者も数名が同行して動画を録ってチーム内で共有し、正しいトレーニングが継続できるように後押しした。

 そうして故障も癒え、地道な努力で強くなった体は秋口からの急ピッチの追い込みにも耐え、12月には自己ベストも大幅に更新。別大での快走につながった。自身の体と向き合うことはアスリートの基本だろう。競技歴の浅い青木にとって、さらなる伸びしろを感じさせる経験となった。
 
 1976年宮城に生まれた青木は「もともと運動は苦手」だった。視覚障がいを負ったのは高校卒業後、網膜剥離が原因で、現在の視力は右目が明暗を感じるくらい、左は視力0.02だが視野が狭くかすんでいる。職業訓練校を経て2007年に現所属先に就職、障がい者向けの情報ポータルサイトの運営を担当する。ランニングと出会ったのは08年頃で、同僚から伴走者と走るランニングクラブを紹介されたのがきっかけだ。

「実は走るのも苦手でしたが、見えなくなって行動が制限されるなか、伴走者がいれば走れるという『新しいチャレンジ』に興味を引かれました」

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