平昌パラで毅然と裁く、パラアイスホッケーの日本人レフェリー (2ページ目)

  • 荒木美晴●取材・文 text by Araki Miharu
  • photo by Photo Service One/Uehara Yoshiharu

 山口さんはカナダ・トロント生まれ。大学卒業までトロントで過ごした。幼少期からアイスホッケーに親しみ、高校まではプレーヤーとして活躍。大学1年でレフェリーに転身した。アイスホッケーのレフェリーのキャリアは約20年で、普段は一般のアイスホッケーで笛を吹き、アジアリーグや世界選手権のディビジョンIIBなども経験している。現在はアメリカ・カリフォルニア州在住だ。

 大学卒業後、2005年の愛知万博でカナダ館のスタッフに採用されたのをきっかけに来日。その滞在中もオフの日に氷に乗りたいと考えた山口さんは、地元のアイスホッケークラブを突撃訪問。事務所で「レフェリーをしたいんですけど」と交渉し、ボランティアで笛を吹いていたそうだ。

 そんな時、クラブの関係者から「日本の実業団チーム、日本製紙クレインズが通訳を探しているが興味はないか」と聞かれた。高校時代にトロントにクレインズが合宿に来て、チームを知っていたこと、また当時はレフェリー以外の仕事はしていなかったこともあり、万博終了後はカナダに帰国せずに、そこから2年間、クレインズの通訳として活躍した。

 その後、一度カナダに帰国した山口さんだが、今度はクレインズからチーム付きレフェリーの打診があり、再び日本へ。09年から14年までの5年間、選手とともに汗を流した。

 この間に長野でパラアイスホッケーの世界選手権Bが開かれ、観戦していたところ、日本の協会スタッフに声をかけられ、そこからパラアイスホッケーとの関わりが始まった。

「前回のカナダ帰国時に実は偶然、一度パラアイスホッケーのレフェリーを経験していました。面白いなと思っていましたし、スタッフの方の熱心なお誘いもあって、やることにしました」

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