1964年の日本代表選手は「パラ出場の自信で顔つきも変わった」 (3ページ目)

  • text by Sportiva

伊藤 その時代は障がいのある人の雇用は少なかったですから、別府義肢製作所はすごいですよね。

須崎 社長さん自身も障がいがあって、理解があったんですよね。それに報いないといけないと思って努力しました。

伊藤 その後、『太陽の家』でも働くようになったのですね。

須崎 パラリンピックが終わって、翌年の春に別府義肢製作所に就職しました。そのあとに『太陽の家』ができて、社長が中村先生のところに手伝いに行くということで、私も一緒に行くことになったんです。

伊藤 その『太陽の家』で働いていた方と結婚されたと聞きました。

須崎 そうですね。私の猛アタックで(笑)。でも、奥さんはかわいそうでした。田舎に帰ったときに、まったくの他人に「お前は障がい者の財産目当てなのか」と言われて泣いたんです。そんな時代でした。ただ、『太陽の家』にいた人たちも、そのあとに続々と結婚していったので、「よかったな」って妻と話をしました。

伊藤 ひとつ変わると、すべてがいい方に変わっていくのですね。

須崎 そうですね。パラリンピックが終わって、仕事ができたことが一番大きいかもしれない。

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