サッカーから車椅子バスケへ。京谷和幸がつないだ「代表の誇り」

  • 文●スポルティーバ text by Sportiva
  • 写真●五十嵐和博 photo by Igarashi Kazuhiro

盛りあげよう!東京パラリンピック2020(11)

元車椅子バスケット日本代表・京谷和幸氏インタビュー Vol.2

 現在はおもにサッカーの指導者として活動している京谷和幸氏だが、車椅子バスケの現役時代は、日本代表としてパラリンピックの舞台に、シドニー、アテネ、北京、ロンドンと4大会出場している。北京パラ後には一度引退を考えたものの、日本代表を背負う意味を改めて考えたときに「後輩たちにまだ伝えることがある」と、気がついたという。当時の日本代表への思いも含め、現役時代を振り返ってもらった。
(前回の記事はこちら)

車椅子バスケの現役時代について語った京谷和幸氏車椅子バスケの現役時代について語った京谷和幸氏伊藤 現役時代のことをお聞きしたいのですが、車椅子バスケと出会って、プレイヤーとして活躍された経験というのは、今どう感じていますか?

京谷 やっぱりひとつの大きな財産だと思っています。ケガでサッカーができなくなって、失意のどん底まで落ちましたが、車椅子バスケと出会ったおかげでまた自分が輝ける舞台を見つけることができました。車椅子バスケがなかったら今の自分はたぶんないだろうなというぐらい、車椅子バスケには感謝しています。

伊藤 パラリンピックに4回出場されたことも素晴らしいことですよね。

京谷 なぜ4回も出られたかっていうのは、日の丸や日本代表に対する思いが、人一倍強かったからだと思います。国を背負って戦う以上、勝つか負けるかの世界なのに、若手の選手が負けて笑っているのが許せませんでした。それは2000年のシドニーパラで代表に入ったときから感じていて、そこから自分が日本代表を変えなきゃって勝手に思っていました。04年アテネパラから代表に入ってきた、藤本怜央(宮城MAX)や、藤井新悟(宮城MAX)などの若手に、「日本代表とはこういうものだ。そんな甘い考えじゃできない」って伝えていく中で、やっと少し、日本代表らしさが出てきたのが08年の北京パラかなっていう気がしています。

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