オリンピックを愛した男、ショーン・ホワイトの軌跡。バトンは平野歩夢に託された (3ページ目)

  • 徳原海●文 text by Tokuhara Kai
  • photo by JMPA

【アスリートという枠を飛び越えて】

 さて、話を彼の経歴に戻そう。ショーンはトリノオリンピックのあと、2007年夏にはスケートボードでもXゲームズ優勝を飾り、夏の冬の両方で同大会を制した初めてのアスリートとなった。そして3年後、2010年バンクーバーオリンピックで当時の最高難度の技「ダブルマックツイスト1260」を決勝2本目で成功させて見事2大会連続の金メダルに輝く。さらに2013年にはウィンターXゲームズのスーパーパイプを6連覇と、まさに完全無欠の王者に君臨。

 また、その頃には「Air & Style」という大会のプロモーターを務めるようになっており、自身がギタリストを務めるロックバンドもメジャーデビューを果たすなど、ショーン・ホワイトはアスリートという枠を飛び越えたスノーボードアイコンとなった。

 しかしオリンピック3連覇を目指して臨んだ2014年ソチ大会で、ショーンは初めて失意を味わう。15歳で初出場を果たした平野歩夢が銀メダルを獲得した裏で、決勝でらしからぬ着地ミスや回転不足を繰り返して表彰台を逃したのだ。

 2017年3月、バートンUSオープン開催中のコロラドで11年ぶりにインタビューした際、ショーンは当時の苦い経験をこう振り返った。

「ソチの結果はショックだった。みんなあの失敗で僕が引退するんじゃないかって思っただろうし、僕自身も自分の存在意義を疑い、プライベートでもつらいことが重なってしばらく家で塞ぎ込んだからね。でも、しばらくオフを取って、音楽活動に専念したりしながら自分と向き合い、次第にもう一度オリンピックを目指してハードワークできるようになったんだ。今はあの失敗があったからまた心に火をつけることができたのだと思っているよ」

 その取材の3日後には、USオープンのハーフパイプ決勝で圧倒的なパフォーマンスを見せて同大会2連覇。結果としてソチでの挫折とその後の苦悩がショーン本人でさえまだ見なかった底力を引き出し、それが翌年の平昌オリンピックでの平野歩夢との歴史に残る激闘、そして3つ目の金メダル獲得へとつながっていったとも言えるだろう。

 ショーンに最後に会ったのはその平昌オリンピック直後の2018年3月。場所は1年前と同じコロラド。当時はスケートボードで東京オリンピック出場を目指したいとは話していたものの5度目のオリンピック出場への思いは明言していなかった。しかし今思えば、それを示唆するようなこんな言葉を残していた。

「自分自身を高めることこそが人生に意味を与えてくれる。だから僕はいつだって余力を残す必要はないと思っているんだ」

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