41歳での銀メダル獲得を世界が称賛。葛西紀明が偉業を達成したスキージャンプの歩み (2ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by Kyodo News

【「世界一速い」ジャンプ】

 横川朝治ヘッドコーチは「ジャンプ台の左側はゆるやかな向かい風だけど、あとは全部追い風という極めて厳しい条件で、飛んでみなければウインドファクターの得点がどのくらいになるかわからない状況だった。そんななかで130mを飛べばメダルだと予測していた。葛西の時は130mに届かなくてもおかしくない条件だったけれど、最高のジャンプを見せてくれた」と話した。

 葛西は「結局、飛型点の差でしたね」と苦笑した。2006年夏に痛めて以来、膝痛は持病のようになり、着地ではなかなかテレマーク姿勢を入れられなかった。だが、五輪シーズンでは、膝の周囲の筋力トレーニングで痛みがなくなってテレマークを入れられるようになってきていて、ジャッジも18.5〜19.0点ほどを出した。だが、19.5点〜20.00点を取るストッフに比べればまだ完璧ではなかった。

 それでも横川ヘッドコーチは、葛西が飛ぶジャンプの空中を進む速度は世界一だと評価。「今回よかったのは、葛西がソチ五輪前のW杯で自分のジャンプを完成させていたこと。踏み切りのタイミングが遅れてもそこそこまで飛んでいけるジャンプになっていたのが大きい」と語った。

 高校1年の冬、1989年世界選手権初出場を果たしてからスタートした世界との戦い。葛西はその翌シーズンの12月からW杯にも出場し始めた。以来、25年間。葛西は「長いとも思うけれど、振り返るとすごく短く感じますね。ほとんどの試合を鮮明に覚えていますから」と明るく笑った。

 だが、1992年アルベールビル五輪から出場している、五輪の表彰台は遠かった。アルベールビル五輪は1カ月前のV字ジャンプへの変更指令に苦しんだ。1994年リレハンメル五輪は絶好調で臨める状況だったが、国内最終戦で腰を痛めて団体の銀メダルは手にしたが、個人はノーマルヒルで5位。3位に飛距離点で50cm差という無念な結果だった。

 1998年長野五輪は好調なシーズンインをしながらも、1997年末の練習中に足首を捻挫してその故障を長引かせた。本番はノーマルヒルで7位になったが、ラージヒルと団体戦のメンバーからは外れた。さらに心身ともに完璧に仕上げたつもりで臨んだ2002年ソルトレークシティ五輪は、長野大会の雪辱を果たそうという強すぎる思いが空回りして最初のノーマルヒルの転倒で調子を狂わせ、散々な結果に終わった。

 2006年トリノ五輪は自分のジャンプに迷いを持った状況で迎えてしまった。その間、2度の骨折の恐怖感でジャンプを飛べなくなった時期や、家族の不幸、所属チームの廃部など環境の変化も重なった。そうして味わった数々の悔しさが、彼の競技を続ける気持ちを燃えたぎらせていた。

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