原田雅彦、長野五輪で金メダル獲得前にあった大スランプ。フォーム改造も「船木や岡部のようにはならない」

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by Kyodo News

「僕は人より飛び出す位置は高いが、そのほうが脚力を生かせるし、人よりうまく体を使えている。僕が低い飛び出しをしても船木や岡部のようにはならないし、逆に、船木に僕のジャンプをマネしろといっても無理なんです」

 自分の進む道が明確になった原田。1995年秋から復調し冬にはW杯初戦で3位になると3戦目で初優勝。シーズン終盤にも3勝を挙げて総合5位と復活した。翌シーズンは開幕から波に乗れないなか、ろっ骨を折る危機もあったが、1997年2月の世界選手権はノーマルヒル2位でラージヒル1位と、大舞台での強さを見せつけたのだ。

 船木とともに好調のままで臨んだ長野五輪だったが、原田にはこのシーズンでひとつの懸念があった。どの試合も全体的な傾向として、飛距離を伸ばすようなゲート設定になっていたことだ。船木のような低い飛行曲線を描く選手は飛距離が伸びてもランディングバーンをなめるように飛ぶために着地はしやすいが、高い飛行曲線を描く原田の場合、上から落ちるような着地になって衝撃も大きく恐怖感も出てくる。

 長野五輪もノーマルヒルは飛距離を抑え気味にしたゲート設定だったが、2月15日のラージヒルは「これ以上跳ぶと危険」と設定されたジュリーディスタンスの126mを多くの選手が越えていた。

 そうしたなかで、原田の1本目は不安が出たのか、腰が引ける踏み切りになり120mで6位という結果。1位は131mのビドヘルツル(オーストリア)で、2位は130mの岡部。原田とトップの差は21.8点で優勝を狙うには厳しくなった。

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