原田雅彦「頭のなかは真っ白になった」。冬季五輪で大失速となったスキージャンプ団体最後のジャンプ

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by Kyodo News

【金メダルの確率は4分の3】

 2年前の1992年アルベールビル五輪(※同大会までは夏季・冬季五輪を同じ年に開催していた)で日本は、団体4位、ラージヒル個人は原田が4位の成績を残した。新たな潮流となりつつあった「V字ジャンプ」習得を代表選考の条件にした大会だった。五輪直後のフライング世界選手権を兼ねたワールド(W)杯ではV字ジャンプ習得に最も苦しんだ葛西が初優勝すると、翌1992−1993年シーズンは世界選手権ノーマルヒルで原田が優勝し、W杯で3勝した葛西が総合3位と世界のトップに迫っていた。

 そして迎えたリレハンメル五輪シーズン。五輪前のW杯14大会では葛西は1勝を含めて3回表彰台に上がり、岡部と西方は2位と3位で2回の表彰台と好調だった。個人戦はイエンス・バイスフロク(ドイツ)とエスペン・ブレーデセン(ノルウェー)、アンドレアス・ゴルトベルガー(オーストリア)が3強でメダルは難しかったが、団体を考えれば4位が最高の原田も含め、4人がW杯総合で15位以内につけており有力なメダル候補になっていた。

 ただ現地に入ってからの不安要素は、原田の調子が上がってこなかったことだった。開会式前日に別の会場で行なわれたナイタージャンプ大会では、葛西と岡部、西方で表彰台を独占したが原田は46位。公式練習が始まっても他の選手の名前は10位以内にあっても、原田の名前だけはなかった。

 それでも最初の種目だったラージヒル個人で原田は、1本目に4位につけるジャンプを見せた。2本目は悪条件になって13位に落ちたが、それまでの不安は払拭するジャンプだった。日本勢は岡部が4位になって西方は8位、葛西も14位。エースふたりの調子はもうひとつではあったが、団体は金メダルを狙える位置にいることを証明した。

 ラージヒル団体のオーダーは、1番手から西方、岡部、葛西、原田の順番だった。小野学ヘッドコーチの思惑は「3強がいるドイツやノルウェー、オーストリアは2番手以下の選手の層が薄い。15位以内の4人がそろう団体では、金メダルの確立は4分の3だろう」というものだった。

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