レスリング文田健一郎はなぜ、37年ぶりの金メダルが獲れなかったのか (2ページ目)

  • 松瀬 学●文 text by Matsuse Manabu
  • photo by JMPA

 文田のレスリング人生に大きな影響を与えたのはふたり、父と太田忍である。子どもの頃から、父がレスリング部監督を務める山梨・韮崎工業高校の練習場で遊んでいたという。中学1年で本格的にレスリングを始めると、父から「反(そ)り投げ」を教えてもらった。柔軟性を生かした投げ技のとりこになった。

 実力をつけていくと、目の前には日本体育大の2年先輩となる太田が立ちはだかった。切磋琢磨する。2016年のリオ五輪では、太田の練習パートナーとして現地に入り、マットのそばから太田の銀メダルを見つめた。決勝の対戦相手は奇しくもキューバの選手だった。 

 その後、文田は太田を倒し、東京五輪出場権を獲得した。五輪前、「(太田)忍先輩がいなければ今の自分はない」と言っていた。

 決勝戦進出を決めた前日、文田は太田の激励を受けていた。「キューバ怖いやろ」と冗談を言われていた。こう、笑い飛ばしていた。
「自分のレスリングをすれば大丈夫。忍先輩は銀メダルだったので、自分は金メダルをとって自慢したいと思います」

 この5年間の道のりは決して平たんではなかった。ただ「東京五輪で金メダル」の目標はぶれなかった。2017年、19年の世界選手権で優勝した。途中けがもあったが、着実に力をつけていた。トレーナーをつけ、筋力強化も図った。たとえば、懸垂では55キロのおもりをつけて腕を引くことができるようになった。引く力がつけば、同時に前に出る推進力を得て、相手に重圧をかけられるようになる。

 誤算もあった。コロナ禍で東京五輪が1年延期となった。もちろん技術や戦い方に磨きをかけられるが、相手にも成長、研究、対策の時間を与えることになる。こういう時は追う立場に有利に働く。

 6月上旬、新型コロナのワクチン接種に伴う副反応が出て、貴重な外国選手との実戦機会となるポーランド遠征を回避した。外国勢の対策ぶりをチェックする機会となるはずだった。これは痛かった。

 調整は少し狂った。7月。総合格闘家に転身した太田が練習場に突然、やってきた。久々のスパーリングをし、アドバイスをもらった。「焦るな。自分の戦い方に徹しろ」と。

 結局、文田は自分のレスリングを東京五輪のマットで展開することができなかった。ミックスゾーン(取材エリア)。銀メダリストは白いバスタオルで涙をぬぐいながら、嗚咽をこらえきれなかった。

「まずは、大会の開催と運営に協力してくれた人、テレビの前で応援してくれた人に感謝したい。(初めての五輪は)たくさんの人に応援されているのを実感しました。そういう人たちに恩返しをしたかった。ふがいない結果に終わり、ほんと申し訳なく思います」

 実直、誠実。ほかの言葉が思い浮かばない。金メダル獲得に足りなかったものは?

「なんですかね。やれることはすべてやってマットに立ったんで......。落ち着いて、冷静に結果を見たら、何か浮かんでくるんじゃないかと思います」

 太田先輩には伝えたいことは、と聞けば、文田は自嘲気味に少し笑った。

「超えられなかったですね。金メダルを獲って、忍先輩に喜んでもらいたかったんですが」

 故郷で応援してくれた父に伝えたいことは。

「次は金メダルを獲るって報告しに行きます」

 最後、文田は笹本睦コーチにこう、言われたことを明かした。「オリンピックの借りはオリンピックでしか返せない」と。

 レスリングの五輪メダルはつないだ。でも夢と公言してきた金色のメダルには届かなかった。次のパリ五輪まで3年。相手の対策をしのぐ、文田健一郎のレスリングをどう作り上げるか。グレコ40年ぶりの金メダル奪取への挑戦はもう、始まっている。

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