ウインドサーフィン須長由季、9年越しのリベンジへ。「五輪の借りは五輪でしか返せない」

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by Kyono News

 須長がウインドサーフィンを始めたのは明治大学に入学してからだ。中高まで海なし県の埼玉で軟式テニスをしていたが、大学に入り、何か打ち込めるスポーツがないか考えた。

「入学して勧誘のチラシをもらったんです。あれ?これ、楽しそうだなって思って、試乗会に行ったんです。体験した時、ちょっとですけど、前に進んで、先輩から『なかなかいないよ。最初からこれだけいけるの』とかおだてられて。今思えば先輩のうまい勧誘方法かなって思うんですが、私も『ほんとですか』とその気になって、気がついたら入部していました(笑)」

 当時、女子部員は須長ひとり。部活の体質は昔ながら体育会で、女子に遠慮も配慮もなかった。

「部活は厳しかったですね。男女まったく関係なかったです。女子だからということで例えば体力面での配慮がまったくなくて、冬合宿だと朝10キロ走らされるんですが、男子と一緒だと遅れるので一人で早めに出ていましたし、海にレースのコースを作る時、アンカーとブイを持って出ていくんですが、アンカーが重くて肩に食い込むんですよ。でも、誰も手伝ってくれないので、ほんといろいろ鍛えられました」

 合宿所は逗子海岸のアパートだったが、階段が朽ち果て、部屋の布団も砂まみれだった。そこに泊まって朝起きると目が腫れるので、須長は泊まるのをやめて、片道2時半かけて埼玉の自宅から海に通っていた。

 また、ウインドサーフィンは、ボードなどの道具に加え、ウエットスーツ、合宿費用、レース費用など、かなりお金がかかる。須長はバイトと両親のサポートで、なんとかやりくりしていたが、ウエットスーツはボロボロになったものを着て練習していた。いろんな厳しさから退部していく学生が多かったが、逆に須長はメキメキと頭角を現し、大学3、4年の時には関東インカレで2連覇するなど、最強のコースレーサーになった。

「強くなれたのは、環境ですね(笑)。スタートは、大学から始める子が多いので同じなんですけど、頑張れば頑張った分成績が出るんです。部活の厳しい環境と仲間に支えられて、気がついたら、あれ? いい所にいるみたいな感じでした」

 須長はウインド界の女王になったが卒業後、一度、ウインドサーフィンから離れることになる。大学時代は敵なしだったが、日本のトップには及ばないレベルだった。そんな時、2人乗りヨットの470級をやらないかと誘いを受けた。470級は、五輪種目で日本が強く、過去96年アトランタ五輪で銀メダル、04年アテネ五輪で銅メダルを獲得している。

「体格が良くて、身長が高かったので、470級でクルーをやらないかと誘われたんです。ウインドサーフィンでは五輪は難しいので、470級で行けるのであれば、と思って大学を卒業して2年間は470級で五輪を目指しました」

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