井村雅代が中国で成したもう一つの偉業。
政治の枠を超え、抱擁を生んだ

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 井村は、中国でこの問題に直面した。北京、上海、南京、成都などから選抜されてやってきた選手たちは、チームメイトとのつながりよりも出身省の意向を大切にする。オシムの通訳であったアルマ・ハリロビッチは1980年代にベオグラードから北京大学に国費留学していた経験があるが、北京では身をもってこの地域主義をユーゴ以上に感じていたという。

「ユーゴ人の私も驚くほどで、アイデンティティーは出身省にあり、大学の寮でも学生たちは出身地ごとに固まってあまり交流をしようとしなかったのです。元々、省ごとに言葉も文化も違うので、そうなると他の省の学生とはひとりも友人にならずに卒業することも決して珍しくなかった」

 スポーツの世界では、さらにその傾向が強まる。各省が供出する予算によって北京に派遣された選手はまず地元の期待を背負っている。同じナショナルチームでも他省の選手には、むしろライバル意識をむき出しにする。

 井村は、北京五輪のチーム種目の代表選考において最初の洗礼を受ける。13人から10人に絞る段階で、演技の悪かった江蘇省南京出身の選手をふたり落とすことにした。しかし、この判断に南京の体育リーダーが黙っていなかった。

「ふたりを落としたら、南京からの代表がいなくなる。それならば、我々はもうシンクロを辞める」

 落選させたら、以降はこの競技を省としてボイコットするという、いわば恫喝であった。シンクロ担当の委員長は忖度を薦めたが、井村は南京の体育リーダーに言い返した。

「それならどうぞ辞めて下さい。南京が辞めても北京でメダルが取れれば、他の省が力を入れて来ますよ」

 頑として譲らず3日間が過ぎた。すべてを任せてくれるということではなかったのか。

「そういう要求が続くのなら私が直接話します」

 最後は要人への直談判の姿勢を見せる井村に、シンクロ担当の委員長が折れて調整に入ってくれた。

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