「美しい日本のシンクロを守る」井村雅代は批判覚悟で中国に向かった (4ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 心が折れる理由は数限りなくあったが、それでも指導を仰ぎたいというふたりを放ってしまうわけにはいかない。日本のシンクロ史上、初のメダルをもたらしながらも教える環境もままならない。ゼロどころかマイナスから「井村シンクロクラブ」を立ち上げた井村は、連日、借りられるプールを渡り歩き、ときには京都まで足を伸ばして指導を続けた。八方ふさがりとなった井村がもしもここで指導を諦めてしまっていたら、現在のアジアの水泳シーンはまったく変わったものになっていただろう。

 井村は、劣悪な環境の中で選手を育て、結果を出し続けた。気がつけば日本代表のコーチとして6大会連続でメダルを獲得、国内の枠を大きく超えた世界的指導者として認知されていった。

 アテネ五輪を終えて退任すると、2008年の北京五輪を控えた中国の水泳連盟から、代表監督のオファーが届いた。

 指導者の実力が海外から、しかもオリンピック開催国から認められたことは大きな栄誉であり、日本のスポーツ界としても誇るべきことであった。しかし、当時の水泳連盟の反応はまるで真逆であった。ひと言で言えば「中国に行くな。行けば裏切り者だ」というものであった。

 あまりに狭量である。これがサッカーの世界であればどうであったろうか。日本の指導者が世界に認められてようやく輸出できる時代が来たということで、協会をあげて送り出したと思われる。

 事実、クラブチームであるが、フランスのグルノーブルのGMに祖母井秀隆氏が就任した際、とあるサッカー協会幹部から氏に、日本人監督を起用してくれないかという打診さえあった。すでにヨーロッパの監督が構想にあり、祖母井氏はこれを断ったが、日本の監督がヨーロッパでもまれることで人材として大きなものを日本に持ち帰ってくれるという巨視的な見方がそこにはあった。

 井村の考えもまた大局にあった。自分がこのオファーを断れば、中国は間違いなく、世界最強のロシアからコーチを招聘するだろう。そうなればシンクロの世界の趨勢はますますロシア型の手足の長さを活かした演技がメインストリームになり、速さと同調性を生命線とする日本のシンクロは傍流に追いやられてしまう。母が美しいとつぶいたシンクロ本来の美意識のためにも、アジアのチームのためにもそれに歯止めをかけなくてはいけない。

 しかし、海を渡るという井村のこの決断に対しては、連盟の重鎮から「俺の目の黒いうちは絶対にあいつに日本での指導はさせん」との言葉が発せられた。

 経験をフィードバックさせるどころか、退路を断つような言質である。連盟のトップがパイオニアになろうとする指導者の挑戦をリスペクトせずに逆の空気を熟成すれば、関係者もそれになびく。世論も煽られて、井村を好意的に送り出すどころか、ほとんどがバッシングであった。再び四面楚歌の状態であった。それでも井村の覚悟は変わらなかった。

(つづく)

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