「美しい日本のシンクロを守る」井村雅代は批判覚悟で中国に向かった (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 井村がシンクロと出会ったのは、小学4年生から通った浜寺水練学校(=浜水)だった。まだ日本ではマイナーな競技であったが、それを見た母親が「シンクロってきれいやね」とつぶいたのを覚えている。

日本の選手たちに指導をする井村雅代 photo by 西村尚己/アフロスポーツ日本の選手たちに指導をする井村雅代 photo by 西村尚己/アフロスポーツ

 中学から没頭した選手生活を大学で終え、教員をしながらの指導も続けていたが、浜水から、専任コーチになることを請われた。先述したように教員という仕事にやりがいも誇りも持っていた。

 専任コーチとしての収入は、教師に比べれば比較にならないほど低く、安定した職も捨てることになる。それでもシンクロをしっかりと教えられる人材は、自分をおいて日本にはいないと考えると、恩返しの意味も込めてコーチ一本に絞った。1981年のことだった。3年後のロス五輪では手塩にかけた元好がソロとデュエットで銅メダルに輝いた。

 夏季冬季合わせて19回の五輪取材をこなして来たテレビ朝日アナウンサーの宮嶋泰子は、シンクロの黎明期からこの競技をずって見て来た稀有なジャーナリストであるが、井村の功績をこう語る。

「水泳連盟からの支援もなく、競泳よりもずっと低く見られていた時代に井村さんが、シンクロでメダルを獲得したことは、本当に奇跡に近いことなんです。でも、それに気がついている人がほとんどいない。あの種目がどれだけ過酷で厳しいものか、知られていないことに私は歯がゆい思いをしています」

 バックアップもない、陽も当たらない中で大きな功績をロスで刻んだ。しかし、井村の最初の大きな試練は、この直後に降りかかった。浜水の方から、突然の給与の引き下げを言い渡されてしまうのである。運営の母体であった浅香山病院の経営上の理由ということで、一日千円の日給で指導してくれというものであった。

 実質的な解雇であった。五輪メダリストを育て上げながら、追われるかたちで浜水を出た井村に、ふたりの選手がそれでも先生の指導を受けたいとついて来た。これに対して古巣の浜水から圧がかかった。井村にはプール施設を使用させないように、という回状が各地に出されたのである。ホームを失った。

「このときは周りの人が全員、敵に見えた」

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