部屋から脱走し帰国した旭天鵬。
なぜ相撲界への復帰を決断したのか

  • 武田葉月●取材・構成 text&photo by Takeda Hazuki

 一方、旭鷲山はぐいぐい番付を上げて、1995年春場所、新十両に昇進しました。モンゴル人初の関取になったことで、日本のメディアはもちろん、モンゴル国内でも大騒ぎになりました。

 関取になれば給料をもらえるし、付け人も付く。これまでの生活が一変します。一緒にモンゴルから来日して、身近なライバルだったはずの旭鷲山が、ひと足早く違う世界に行ってしまった――。

 これには、普段は闘争心を表に出すタイプでない僕も、燃えないはずがありません。1年後の1996年春場所、僕は21歳で新十両に昇進しました。

 モンゴルから日本にやってきて4年。「将来が見えない」と悩んで、入門半年でモンゴルに逃げ帰り、両親にはずいぶん迷惑をかけてしまった。なかなか気持ちが定まらない僕を、黙って信じて見守ってくれたのも両親です。両親には早く恩返しをしたいと思っていました。

 関取になってもらった給料で、自分が買いたいものはとくになかったので、当時流行っていた自動車『パジェロ』を両親に贈りました。その頃のモンゴルは道路事情が悪くて、四駆の自動車があれば、家族は移動が便利だろうな......と、前から考えていたんです。

 その資金の400~500万円は、当然ローンです(笑)。両親、とくに父はパジェロをとても気に入ってくれて、10年以上大事に乗ってくれました。

旭鷲山らとともにモンゴルでの相撲ブームの火付け役となった旭天鵬旭鷲山らとともにモンゴルでの相撲ブームの火付け役となった旭天鵬 僕が幕内に定着したと言えるのは、1999年夏場所、3度目の入幕を果たした頃からでしょうか。

 その間、同期生の旭鷲山は、土俵上でさまざまな技を繰り出して、「技のデパート・モンゴル支店」なるニックネームで人気者になっていたのですが、2000年初場所で、僕も初めての三賞となる敢闘賞をいただき、「ようやく旭鷲山に追いついたかな?」という気持ちでした。

 僕たちモンゴル人6人が大島部屋に入門してから、8年が経っていました。

 翌年には3人に減りましたが、旭鷲山と僕は幕内に定着し、細身の旭天山(旭嵐山から改名)は幕下で奮闘。旭鷲山の入幕をきっかけに、モンゴル国内で起きた"相撲ブーム"はどんどん盛り上がっていきました。

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