記録と記憶。平成の大相撲史に残る名勝負。白鵬を稀勢の里が止めた日 (2ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Kyodo News

 名古屋場所後に退任した武蔵川理事長(元横綱・三重ノ海)に代わって就任した、当時の放駒理事長(元大関・魁傑)が何度も「白鵬が土俵で頑張ってくれなかったら協会はもたなかった。白鵬の頑張りがファンの目を土俵に戻してくれた」と繰り返していたほど、白鵬の記録は信頼を失墜した国技の唯一の救いだった。

 迎えた九州場所。初日から7連勝を飾れば、1939年初場所で双葉山が残した69連勝という「不滅の記録」に並び、さらに勝ち星を伸ばして前人未到の金字塔を樹立するかに注目が集まっていた。場所前から、白鵬は敬愛する双葉山の記録を更新することに意欲を示し、周囲も71年ぶりに連勝記録が塗り替えられることに疑問を持っていなかった。

 初日に栃ノ心(当時の西小結)をいとも簡単に投げ捨て、江戸時代の伝説の横綱・谷風の63連勝と並んだ白鵬は、翌日に当時の東前頭筆頭だった稀勢の里と相対した。貴乃花に続く17歳4カ月の年少記録で、2004年夏場所に新十両に昇進するなど"期待のホープ"だった稀勢の里。しかしこの場所は、4場所守った三役から落ちたばかりで、期待とは裏腹に「伸び悩み」が指摘されていた。

 下馬評は圧倒的に白鵬が有利だったが、軍配が返ると状況は一変した。稀勢の里が捨て身で頭から当たると、白鵬が後退。激しい突き押しに最強横綱が冷静さを失い、不用意な張り手を繰り出した。稀勢の里が、白鵬の脇が甘くなった隙をついて左を差すと、右上手を引き、白鵬の左からの下手投げをこらえ、そのまま正面に寄り切り殊勲の金星を挙げたのだ。

 当時の館内は今のような満員御礼ではなく、不祥事の連続で相撲人気が低迷していた影響で閑散としていた。そんな中、溜まり席で座り込んだ白鵬の苦笑いが、連勝記録がストップした痛恨の黒星を象徴していた。

 そして、東支度部屋で着替えたあとに「これが負けか」とつぶやいた瞬間は忘れられない。その言葉には、記録に執着する横綱の思いがあふれていたからだ。一方の稀勢の里は、内心では喜びを叫びたかったに違いないが、感情を抑え、「思い切っていきました。実感が湧かない」と普段どおりに記者の質問に応じた。

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