ベテラン記者は見た。「日本の金メダル候補3人」が散った長野の悲哀 (4ページ目)

  • photo by Kyodo News

 スピードスケートではもうひとり、ショートトラック男子でも力を発揮できずに終わった選手がいた。

 1992年のアルベールビル五輪から正式種目となったショートトラックで、長野五輪で日本に初めての金メダルをもたらしたのは、男子500mに出場した当時19歳の西谷岳文だった。西谷の武器は、スタートで相手を置き去りにするダッシュ力。私は決勝のレースを待ちながら、知り合いのカメラマンに「スタートで飛び出したらそのまま勝つよ」と話していたが、西谷はまさにその通りにスタートで抜け出し、一度もトップを譲らず優勝を決めた。

 西谷は、日本の冬季五輪史上初となる10代のメダリストとなり、会場は大いに湧いた。誰もが笑顔で喜びを分かち合う客席に目をやると、目に涙を浮かべる同競技のエース、寺尾悟の姿が視界に入った。

 寺尾は、高校生のうちに頭角を現し、18歳で出場したリレハンメル五輪では4位入賞。その後も世界選手権で優勝するなど、3種目にエントリーした長野では複数のメダル獲得を期待されていた。

 しかし、自国開催のプレッシャーを一身に背負ったエースはまさかのメダルなしに終わり、西谷が金メダルを獲得した500mでは準決勝に進むことさえできなかった。500m決勝のあと、寺尾に「大丈夫?」と声をかけると、聞き取れないくらいの声で何かを口にして、軽く頭を下げて会場を去っていった。

 不甲斐ない自分に憤っていたのか、それとも日本を引っ張ってきたエースとして、後輩が金メダルを獲得した喜びを噛みしめていたのか、涙の真意はわからない。しかし、その後ろ姿に、私は胸が締めつけられる思いがした。寺尾は不屈の精神でその後も活躍を続けるが、2002年のソルトレイクシティ五輪で"世紀の誤審"というスケート人生最大の悲劇に見舞われることになる。

 4年に1度しかチャンスが訪れない五輪では、どれだけの強さがあっても勝てるとは限らない。メンタルの揺らぎ、道具やルールの変化など、あらゆる不確定要素に立ち向かう選手たちの姿が、見る者の心を打つのだ。

(ソルトレイクシティ五輪に続く)

折山淑美(おりやま・としみ)
長野県生まれ。1992年のバルセロナ五輪以降、夏季・冬季五輪を14大会連続で現地取材を行なっているフリーライター。フィギュアスケート、スキージャンプ、陸上など、競技を問わず精力的に取材を重ね、選手からの信頼も厚い。著書に『日本のマラソンはなぜダメになったのか 日本記録を更新した7人の侍の声を聞け!』(文春e-book)、『「才能」の伸ばし方――五輪選手の育成術に学ぶ』 (集英社新書)などがある。

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