冬季五輪の回想。あの失敗ジャンプ後、原田雅彦は力なく笑っていた (3ページ目)

  • photo by Kyodo News

 ジャンプ団体が終わった後、私はリレハンメル市内の商店街で原田と鉢合わせした。その心中を思い「大丈夫?」と声をかけると、彼は力ない笑顔を返してきた。あまりの出来事に、本人にすれば笑うしかなかったのかもしれない。リレハンメルにあるオリンピック記念館には、うずくまる原田の写真が今も飾られている。そのくらい、現地でも大きい事件として記憶されているのだ。

 大会後、葛西は団体よりも、個人でメダルが獲れなかったことを悔しがっていた。当時のスキージャンプは、前出のバイスフロク、ノルウェーのブーデセン、オーストリアのゴルトベルガーの3人が表彰台を争っていたが、そんな中、葛西はノーマルヒルで「あと50cm飛んでいたら銅メダル」という惜しいジャンプを見せていた。

 リレハンメルで3強に肉薄するまでに、葛西は大きな決断を迫られていた。ほとんどの日本選手はアルベールビル五輪の前からV字ジャンプを取り入れていたが、葛西は最後までクラシカルスタイルで代表入りを目指していた。彼はスキー板を右側に傾け、正面から見ると体と板がV字になるようなスタイルで飛んでいたため、左足をうまく開くことができなかったのだ。

 それでも、W杯ではトップテンに入るなど実績を残し、アルベールビルの代表に選ばれたが、大会1カ月前に監督から「V字に変えろ。変えなければ連れていかない」と言われ、渋々それに応じた。その結果、アルベールビルは惨敗に終わっていただけに、そのリベンジの場となったリレハンメルで、わずか50cm差でメダルを逃したことは相当悔しかったのだろう。

 葛西に関しては、日本が金メダルを獲得した長野五輪で補欠だったことが頻繁に取り上げられているが、45歳になるまで現役を続けてこられたのは、リレハンメルの悔しさがあったからかもしれない。

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