「オリンピック休戦」の実現へ。平昌を前に考えるモスクワ五輪の悲劇 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko  photo by Kyodo News

 しかし、アメリカに追随する日本もまた、アスリートの意志を無視するかたちで5月に正式にモスクワ五輪への不参加を決定する。日本のスポーツ史上に残る大きな汚点を残した。

 日本におけるモスクワ五輪出場資格者178人の夢を突然奪った暴挙から、すでに37年が経過していたが、またも平昌五輪を前にしての不安定な東アジア情勢はフランスのフレセル・スポーツ相にこう言わせた。

「安全を確保しなければ、フランスの選手団を派遣しない」

 再び悲劇を繰り返してはいけない。笹田はその思いを胸に、長田を訪ねたというわけである。長田も動いた。昨年10月、自らが中心となって日本スポーツ学会でシンポジウム『モスクワ五輪ボイコットから37年』を開催したのである。

 パネラーは岡本雄作(モスクワ五輪自転車競技日本代表監督・JOC名誉委員)、竹田恆和(つねかず/東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員長副会長)、笹田弥生(モスクワ五輪体操日本代表・現国学院大学准教授)、太田章(モスクワ五輪レスリングフリースタイル82kg級日本代表)、高田裕司(モスクワ五輪レスリングフリースタイル52kg級日本代表)ら、当事者たちの肉声が再び集約されるかたちで議論は深まった。まさにそれは叫びだった。

 モスクワが自身初めての五輪になる予定であった太田はこう語った。

「代表強化合宿の3日目くらいでした。ボイコットが決まったので合宿は解散、各自自宅待機と言われて茫然として家に帰りました。当時大学5年生でした。モスクワの代表を目指すために卒業を1年遅らせたんです。オリンピックのために留年したのに、その目標が突然目の前から消えてしまった。忘れようとしてお酒を飲んだり、涙がポロポロこぼれたりといった毎日でした」

 高田は気持ちを4年後のロス五輪に切り替えたという。

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