豪栄道よ、屈辱の大失速を自身の糧に。元大関・霧島が叱咤激励エール (2ページ目)

  • text by Sportiva
  • photo by Kyodo News

 陸奥親方がこう述べるのは、自身の経験があるからだろう。

 霧島は平成3年の初場所に、大関に昇進して5場所目で悲願の初優勝を飾った。ところが、綱取り場所となった春場所は5勝10敗と惨敗。「優勝した時は無我夢中で土俵に上がっていた。だけど、綱取りと騒がれた翌場所は、勝たなきゃいけない、と硬くなってしまった。心の状態がまったく違っていた」と振り返る。

 その翌年、大きな重圧がのしかかる時がやってくる。平成4年の夏場所を前に"ひとり横綱"だった北勝海(現八角理事長)が引退し、横綱不在となってしまったのだ。夏場所の番付で最高位は、霧島と小錦の両大関。今では3横綱がモンゴル出身であるように、外国人力士が上位を占めることに違和感はなくなったが、当時は違う。ファン、そして相撲協会の期待は、ハワイ出身の小錦ではなく、日本出身力士として最高位だった霧島に集中した。

「もう毎日毎日、勝たなきゃいけない。それだけだった。しかし、そう思うほど勝てなくなるものだ」

 勝てない土俵が続いたところにケガも重なり、優勝はおろか、綱取りへの挑戦もできないまま、霧島はその年の九州場所で関脇へ転落してしまう。結局、横綱不在という番付の空白を埋めたのは、平成5年の初場所で優勝し、外国出身力士として初の横綱昇進を決めた曙だった。

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