【カーリング】屈辱からの再出発。近江谷杏菜の秘めた覚悟 (2ページ目)

  • 竹田聡一郎●文 text by Takeda Soichiro
  • photo by Tsukida Jun/AFLO SPORT

 しかし、近江谷は「(プレイヤーとして)アイスから離れる、という選択肢はまったく考えなかった」という。再び、世界の舞台で戦いたい、という思いが強かったからだ。

 その理由のひとつに、バンクーバー五輪での苦い経験がある。同大会で近江谷は、極度の不振に陥っていた。ショット成功率()が50%にも届かないゲームもあって、大会途中からはリザーブ(補欠)に回った。
※スキップの指示どおりのショットであったか、専門の記録員がショットごとに判定し、平均化したもの。略して「ショット率」と呼ぶことも多い。

「(バンクーバー五輪では)カーリング人生の中でも、『こんな経験はない』というくらい(ショットが)決まらなかった。具体的にどこが悪いのか、まったくわからなくて、(ショットが)悪い、ということだけがわかっていた。どうすればいいのか、考えても、考えても答えは出なかった。それが、怖かったですね」

 バンクーバー五輪について振り返ったとき、近江谷はそう語っていた。だからこそ、再び世界で、五輪の舞台で、どうしてもカーリングをしたい気持ちが強い、とも。

 ゆえに昨春、ソチ五輪出場チームである、北海道銀行フォルティウスからオファーを受けると、同チーム入りを即決した。自身の強い思いを実現するうえで、何ら迷いはなかった。

 2014年ソチ五輪を5位で終え、2018年平昌五輪に向けて、さらなる強化を図る北海道銀行にとっても、「国内トップクラスの経験と技術を持っている」(スキップ小笠原)という近江谷は、チームに新たな力を与える選手として期待された。

「(チームに)期待されていることは光栄だし、日本代表(北海道銀行)の一員となれてうれしく思う」(近江谷)

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