東京五輪から50年。さまざまな再会があった2014年 (2ページ目)

  • スポルティーバ●文 text by Sportiva
  • 五十嵐和博●写真 photo by Igarashi Kazuhiro

 2009年に遠藤氏が亡くなるまで、二人の友情と家族ぐるみのつきあいは続く。お墓参りをすませたチャスラフスカさんは、遠藤家の人々とひとしきり思い出話に花を咲かせていた。

 彼女が次に向かったのは、東京の下町にある介護施設だった。車椅子に乗って現れたのは、101歳になる吉田夏氏。日本人初の国際女性審判員として、1956年メルボルン五輪から1972年ミュンヘン五輪まで、5大会連続で審判を務めた。そして彼女はチャスラフスカさんに、「日本には自国の選手をひいきすることのない、とてもフェアな審判がいる」と強い印象を残したのだという。

 数十年ぶりの邂逅に言葉は要らなかった。72歳になるチャスラフスカさんが突然、吉田氏の前で開脚を披露。「今のは何点ですか?」とたずねるチャスラフスカさんに、吉田氏は「満点よ、満点」と、手を叩いて喜んだ。

 1週間ほどの短い滞在の中で、多くの日本人と再会を果たしたチャスラフスカさんは、50年前の東京五輪についてこう語っている。

「まずオープニングセレモニーがすばらしかった。広島出身の坂井さん()が聖火ランナーとして入ってきました。もちろんメダル表彰式もよく覚えています。日本らしいセレモニーで、着物を着た女性たちがいて、芸者さんみたいだった。あとは日本の男子が団体で優勝したときに日本の国歌を聞き、とても幸せでした。私は日本の音楽が好きなんです。チェコ日本友好協会として、東日本大震災の被災地の子どもたちを招待したときは、チェコの子どもたちが日本の歌を歌いました。練習して、とてもうまく歌えるようになったんです。また64年にはたくさんのプレゼントをもらいました。ファンから日本刀を受け取ったこともよく思い出します」

※坂井義則さん。元陸上選手。1945年8月6日、原子爆弾投下の1時間半後に広島県で生まれ、東京五輪の聖火最終ランナーに選ばれた。2014年9月10日、死去。

 2020年の東京五輪の招致についても、元IOC委員として側面からサポートしてきたチャスラフスカさん。6年後の東京はこのような出会いを演出できるだろうか。

■チャスラフスカさんと遠藤氏、吉田氏との物語については『桜色の魂~チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか』(著・長田渚左)を参考にした。

■ベラ・チャスラフスカさんの激動の人生を描いたドキュメンタリー映画が1月2日、放送される予定です。
『"五輪の名花"チャスラフスカ 栄光と失意の五十年』
NHK BS1 1月2日午後9時~10時49分

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