【フェンシング】宮脇花綸「チャンスを今後につなげて行きたい」 (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 五十嵐和博●写真 photo by Igarashi Kazuhiro

 宮脇が格上の選手とも戦えるようになったのは、「ゆっくりとゲームを組み立てる」という自分の形を見いだすことができたからだろう。

「ディフェンスをしっかりやるスタイルになったのは、最近ですね。以前は攻撃的にいったり、無闇に突っ込んだりしていましたが、いろいろなことを試してきた結果、今の自分にいちばん合っているのは、このスタイルなのかな、と思っています。太田雄貴選手()は振り込みに優れたアタック系ですし、三宅諒選手()は接近戦がうまかったりしますけど、私の場合は、相手に合わせるというのが自分の持ち味だと思います。相手の裏をかいたり、隙を突いたりして。今後はもう少しスピードをつけていきたいという思いはありますが、今はこのスタイルに徹して、泥臭い一本でも、きれいな一本でも、同じ一本と思ってやっていきたい」
※2010年北京五輪、フルーレ個人銀メダリスト、2014年ロンドン五輪ではフルーレ団体銀メダリスト
※2014年ロンドン五輪、フルーレ団体銀メダリスト

 自分のスタイルについて、冷静に分析する宮脇。そもそも、彼女がフェンシングを始めたのは、5歳のときだった。5歳上の姉が家の近所にあったフェンシングスクールに通い始めて、その送り迎えについていくうち、気がついたら剣を握っていたという。

「幼い頃は男の子と遊ぶことが多くて、サッカーや(アニメでは)ヒーローものが好きでした。ただ走るというのは苦手だったんです。自分はマイペースで、周りの人を見てバランスをとるようなことができないタイプでしたから、団体競技にも向かなかったと思います。でも、点を取って相手を負かしたり、強い相手に勝ったりすることは好きでしたから、フェンシングにハマったのかもしれません。今では、スピードだけでなく、体力や戦術、見せ方など、フェンシングはいろいろな要素が複雑に絡み合って、それがうまく合致することでいい結果につながるので、すごく奥が深くて、やればやるほどハマるスポーツだな、と思っています」

 フェンシングの魅力に目覚めた宮脇は、小学4年生のときに全国大会で優勝。5年生で日本代表となり、フランスで開催された『マラソンフルーレ』に参戦。この大会を含め、海外の大会に毎年のように出場するようになった。そして、男子は400人以上、女子も300人近い選手が出場する、この『マラソンフルーレ』において、中学2年生のとき、ミニム(U14)の部で準優勝。翌年、中学3年のときはカデの部(U17)で優勝した。

 そうした実績から、中学3年生になると、ナショナルトレーニングセンターで練習するようになった。そこで、当時ナショナルチームのヘッドコーチだったアンドレア・マグロ氏の目に止まった。才能を認められた宮脇は、より海外に遠征する機会が増えたという。

 このころから、宮脇自身もフェンシングのために環境を整えるようになった。

「小、中学校と同じ学校に通っていて、高校もその学校に進学するつもりでいました。でもそうすると、大学進学の際に受験をしなければいけない。高校3年生になったら、フェンシングをやめなければいけないと思ったんです。それで、フェンシングを含め、自分の将来を考えて、大学受験のない今の学校を受験したんです。その選択はすごく良かったと思っています。新しい友だちもできたし、小中学校のときの友だちと今でも仲がいいから、母校がふたつある気分なんです」

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