田中理恵が語る東京五輪。「2020年はゴールではなく、スタート!」

  • スポルティーバ編集部●文 text by Sportiva

10月特集 東京オリンピック 1964の栄光、2020の展望(12)

 地球の裏側、ブエノスアイレスで2020年の五輪開催が東京に決定し、日本中が喜びに沸いてから、すでに1年以上が経った。その東京五輪招致団の一員として活躍し、現在は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事を務める田中理恵さんにインタビューを試みた。

 体操選手としては、日本人女子初のロンジン・エレガンス賞を受賞するなど、長い手足を生かした美しい演技で注目を集めた。五輪招致活動では、昨年6月、スイス・ローザンヌで行なわれたIOC総会で、立派に英語でのスピーチを披露し、9月の開催決定時も現地で喜びを分かち合った。招致活動中の出来事、現在の活動、そして、2020年東京五輪開催への思いを語ってもらった。


たなか・りえ●1987年、和歌山県生まれ。両親、兄と弟も体操選手という体操一家。2010年世界選手権で、団体5位入賞に貢献。個人総合でも決勝進出を果たし、日本人女子初の「ロンジン・エレガンス賞」を受賞。2012年、ロンドンオリンピック出場。2013年12月、現役引退を発表。現在は、日本体育大学児童スポーツ教育学部助教。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事たなか・りえ●1987年、和歌山県生まれ。両親、兄と弟も体操選手という体操一家。2010年世界選手権で、団体5位入賞に貢献。個人総合でも決勝進出を果たし、日本人女子初の「ロンジン・エレガンス賞」を受賞。2012年、ロンドンオリンピック出場。2013年12月、現役引退を発表。現在は、日本体育大学児童スポーツ教育学部助教。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事――田中さんが記憶に残っているオリンピックは?

「記憶にしっかり残っているのは(2000年)シドニーオリンピックからです。ロシアの(スベトラーナ・)ホルキナ選手(アトランタ、シドニーオリンピック段違い平行金メダリスト)が演技しているのを見て、『きれい、美しい』と。それまで、体操といえば、兄弟(兄・和仁、弟・佑典)だったんですよ。ホルキナさんは長身(164センチ)で、むっちゃカッコよくて、もう、感動しました。自分も身長が伸び始めて、悩んでいたのもありましたし」

――他の競技は見ていましたか?

「大学に入るまで、本当に体操にしか興味なくて、体操だけを見ていました。サングラスを放った高橋尚子さん(女子マラソン・金メダリスト)も、ちょっとニュースで見たくらいで。今は、冬季五輪になりますが、同じ採点競技のフィギュアスケートは気持ちが入っちゃいますね」

――オリンピック出場を意識したのはいつ頃からですか?

「最初に小学校6年の時、(2004年)アテネを意識しましたね。その後、中3でケガをして、一度あきらめかけていたのですが、大学3年の時から、(2012年)ロンドン大会を目指しました。個人としてもそうですが、どうしても3兄弟で出たいと。それが実際、一気に叶ってしまい......ちょっと幸せすぎて怖かったです(笑)」

――オリンピックは選手にとって、やはり特別なものなのでしょうか?

「私は、県大会も日本選手権もオリンピックでも、(演技に臨む)気持ちは一緒でした。ただ、オリンピックの時は、自然と『頑張らなきゃ、失敗したくない』と欲が出てしまった。平常心でなかった。もし、いつものような気持ちだったら、もっといい演技ができたのでは、という思いはあります。でも、あのキラキラとした舞台で、演技ができたことは人生の宝物です。お父さん、お母さん、おばあちゃんも現地に来てくれて、恩返しもできました。あと、3年若かったら、もう1回出たいです(笑)」

――やっぱり最高の舞台だと。

「そうですね。あの会場に入った時の歓声、興奮は忘れられません。そして、国を越えて、応援してくれたことも印象に残っています。床の演技の時も手拍子をくれました」

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