2014.01.09

ジャンプ、葛西紀明7度目の五輪で「狙うは金メダル」

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • 千葉茂●写真 photo by Chiba Shigeru(人物)photo by AFLO SPORT(競技)

長野五輪はケガの影響もあり、団体に出場できず悔しさが残る大会になった  それまでの葛西の特徴はスキーの先端が顔の上まで上がってくるほど前傾するジャンプで、ヨーロッパでは"カミカゼ"と評されていた。だがルール改正でスキーの長さが身長プラス85cmから80cmに変更され、ビンディングの位置も変わってスキーの前側が短くなった。さらに最新のビンディングは踵(かかと)と、スキーがベルトで一定の距離までしか離れないようになり、ワイヤーで固定していたものと違ってスキーの先端が上がって来なくなったのだ。

 そのため以前のような前傾姿勢で飛ぶとスキーの先が下がってしまう。そこを気をつけるように言われていたが、今までと勝手が違う中、W杯開幕直前の練習で転倒して鎖骨を折ってしまった。年明けにまた転倒して同じ箇所を骨折した彼は、しばらくは怖くてジャンプが飛べないほどになった。葛西は「本当に恐怖心無く飛べるまでには10年かかりました」と言う。

 そんな不調の時期に追い打ちをかけるように、96年の秋に母親が火事で大火傷(やけど)を負うという不幸に見舞われた。97年1月のW杯白馬大会で2位になって3年ぶりに表彰台に上がった時には、「骨折をしてからは満足のいくジャンプが出来なかったり、母が大火傷をしたり。精神的にも肉体的にも辛い事だらけで、なんで自分だけこんな事が降りかかってくるのかと思いました。だから今日は優勝したような気分です」と目を真っ赤に腫らしていた。

「結局、母は火傷の影響で長野五輪前年の夏に亡くなりました。不調に苦しんでいた時はそれが自分の負担になるというより、余計に頑張ろうという気持ちになりましたね。骨髄の病気だった妹や母の辛い思いに比べれば、僕の辛さはたいしたことじゃないと思っていました」

そんな思いを持って臨んだ長野五輪だったからこそ、ノーマルヒルだけの出場で、団体の金メダル獲得をランディングバーンで見ていることしか出来なかった自分に余計、腹立たしいほどの怒りを感じたのだ。

 その怒りをぶつけるように、98~99年はW杯総合3位、00~01年は総合4位と低迷し始める日本チームを引っ張った葛西だが、一度だけ競技を辞めようと思ったことがある。それは02年ソルトレークシティ五輪の個人戦で転倒するなど、ノーマルヒル、ラージヒルともに40位台に沈んで団体のメンバーから外れた時だ。

「あの時は体も絞って減量していたし、筋力もすごくて体力とメンタルは完璧だと思っていたんです。ソルトレークに行く前のW杯札幌大会でも3位になっていて調子もよかったし。それなのに結果を出せず、『あれだけやったのにこの成績か』と気持ちが折れましたね。何をやれば勝てるんだって......」

 その前シーズンからギリギリまで体重を絞るために、ヨーロッパ勢がやっているように食事の後すぐにトイレに行って、全部吐き出してしまうこともやった。