ジャンプ、葛西紀明7度目の五輪で「狙うは金メダル」 (2ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • 千葉茂●写真 photo by Chiba Shigeru(人物) photo by AFLO SPORT(競技)

 80年レークプラシッド五輪の八木弘和の銀以来メダルから遠のき、88年カルガリー五輪では初採用のラージヒル団体で最下位の11位と低迷した日本ジャンプ陣。89年世界選手権で高1ながらも代表に選ばれた葛西は、日本ジャンプ復活の担い手と期待された存在だった。 

 その期待に応えるように、89~90年のW杯では10位以内を5回記録。翌シーズンは調子を崩して足踏みをしたが、92年アルベール五輪シーズンはW杯開幕戦から11位、13位と幸先良い発進をし、12月の札幌では自己最高の6位になった。

 一方で、その自信がV字ジャンプへの対応を遅らせた。

 V字ジャンプは88~89年にヤン・ボーグレブ(スウェーデン)がW杯総合優勝をしてその威力を見せつけたが、飛型点で減点されていた異端ともいえるスタイル。だがその有利性をオーストリアなどが認めて、91~92年のアルベールビル五輪シーズンに飛型点の減点がなくなった。実績を残してきたという自負があった葛西は「クラシカルスタイルで勝負する」と宣言するが、日本連盟は「アルベールビル五輪はV字でいく」と決定を下した。年が明けて発表された五輪代表には葛西の名前もあったが、V字ジャンプにするという条件もつけられた。

 アルベールビル五輪まで、約1カ月間でV字へ転向することに葛西は苦しんだ。彼の場合、クラシカルジャンプでもスキーを体と並行にするのではなく、右側に斜めに出し体とスキーでY字になるスタイルだったからだ。右は斜めに出来ても、左を開けなかった。何とか開けるようにはなっても、開いたスキーの裏側を外に向けられないため、ビンディングの金具を曲げて飛ぶという窮余の策でアルベールビル五輪に臨んだのだ。

 91年の夏からV字を始めていた原田雅彦はラージヒルで4位になったが、葛西はノーマルヒル31位、ラージヒル26位という結果に終わった。

 だが瞬(またた)く間にV字ジャンプをものにしていった。五輪までは本当に少し時間が足りなかったのだ。五輪から1週間後のラハティ大会でW杯初表彰台の3位になると、次の大会では2位に。そして3月末の世界フライングヒル選手権を兼ねたハラコフ大会では初勝利をあげた。

 翌92~93年シーズンは3勝してW杯総合も3位と日本のエースに成長。94年リレハンメル五輪ではノーマルヒルで50cm差で銅メダルを逃す5位と惜しい結果だったが、ラージヒル団体では銀メダル獲得に貢献した。

 最後の最後で逃した団体の金メダル。その悔しさを次の長野五輪で晴らそうと葛西は決意したが、翌94~95年シーズンはいきなり不幸に見舞われた。

2 / 5

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る