【体操】田中理恵、激痛を抱えながら笑顔でいられたワケ (2ページ目)

  • 矢内由美子●文 text by Yanai Yumiko
  • photo by JMPA

 4種目合計55.632点で16位。この成績は、最も美しい演技で観客を魅了した選手に贈られる『ロンジン・エレガンス賞』を受賞した2010年ロッテルダム世界選手権での17位、昨年東京で行なわれた世界選手権での20位を上回る自己最高成績だ。「自分らしい笑顔を見せたい」と話していたとおりの、爽やかな理恵スマイルも見られた。

「笑顔は自然と出ていましたね。腰は常にしびれるような痛みでしたが、試合中は痛みを気にしないようにしていました。チームでやっていると、痛みは忘れられます。痛みを気にしていたら、あそこまでの演技はできなかったと思います。オリンピックを楽しもう、そう思ってやったのがよかった」

 思えば、一度は体操をやめようと思っていた。日本体育大の4年生だった2009年春。卒業後は故郷の和歌山に帰って体育教員になろうと考え、県に教員採用試験の願書を提出した。

 ただ、田中の胸の中には多少のくすぶりがあった。子どものころからの夢である、五輪に出るレベルまであと一歩のところまできていたからだ。

 高校時代は左足首に遊離軟骨を抱えており、練習さえままならなかった。

「努力する姿を見せることが格好悪いという思い上がりがあって、いつもふてくされた顔をしていたと思います」

 それが、大学1年の冬に手術をした結果痛みがなくなり、2年から徐々に成績が上がっていった。大学4年のときは世界選手権の代表にはなれなかったが、ユニバーシアードの代表に入ることができた。

 初めて日の丸をつけて戦ったユニバーシアードから帰国してきた直後のこと。田中は和歌山の実家に帰り、現役を続行してロンドン五輪を目指したいという思いを両親に告げた。父・章二(しょうじ)さんは言う。

「教員採用試験まであと1週間くらいのときでしたから、すでに出していた願書を取り下げました。理恵はそこからオリンピックに向かって突き進んでいきました」

 2010年に初めて世界選手権に出たときはすでに23歳という、女子体操選手としては異例の遅咲き。さまざまな葛藤を乗り越えながら五輪に向かう姿勢は常に真摯(しんし)そのものだった。

「オリンピックはすごく楽しかったですし、強い選手と一緒に戦えたのはうれしかった。父は『最高の演技をしてくれた。理恵がここまで目標を持ってやってきたことは、これからの人生に役立つよ』と言ってくれました。そうですね、役立つと思います」

 理恵スマイルが煌(きら)めいていた。

『Sportiva ロンドン五輪・速報&総集編』(2012年8月17日発売)より転載

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