【髙橋大輔の軌跡】「精一杯やった」。ソチで見せた最後の舞い (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi photo by Noto Sunao/JMPA

 2010-2011シーズンは、グランプリシリーズのアメリカ大会、NHK杯で連勝。12月のグランプリファイナルでは公式練習中に小塚崇彦と衝突するアクシデントが発生し、4位に沈んだ。だが、続く12月末の全日本選手権では「ここで終わったなと言われるのが嫌だったから、がむしゃらにいった」と、世界王者の意地を見せて3位。11年3月の世界選手権代表の座を手にした。

 この頃の髙橋は、何かすっきりしない気持ちで競技と向かい合っていたという。

 長光歌子コーチは「シーズン前半は、試合へ向けての戦う気持ちがないと感じたし、闘争心もない状態で練習をしていた」と明かした。髙橋本人も「自分でもどうしていきたいのかわからず、ずっと迷っている感じだった」と、当時のことを振り返っている。

 そんなモヤモヤした気持ちが吹っ切れたのは、11年4月の世界選手権だった。3月11日の東日本大震災のため、予定されていた東京開催が中止になり、モスクワで代替開催になったこの大会、髙橋は5位。思うような演技がほとんどできない惨敗だった。

「こんな最悪な負け方で終わりたくない」と、負けず嫌いの虫が頭をもたげてきた。優勝したパトリック・チャン(カナダ)が、SP、フリーともに当時の世界歴代最高の280.98点を記録したことも、髙橋の気持ちに火をつけた。

 2011年5月、髙橋は右膝のボルト除去手術を受けた。6月には「1年では結果が出ないだろうし、崩れることもあると思う。だからあまり焦らず、3年で自分のスケートをつくりあげていこうと思う」と、将来について言及。それはすなわち、2014年のソチ五輪を目指すことを意味していた。

 2011-2012シーズン、11月のNHK杯のSPで90・43点と自己最高点を出した髙橋は、フリーでは「どちらにするか迷ったが、6分間練習で初めて成功したのでやってみた」と4回転フリップにも挑戦。回転不足にはなったが優勝を決め、再び存在感を示した。その後、12月のグランプリファイナルで2位、12月末の全日本で優勝を果たすと、12年の世界選手権(ニース)では、チャンに敗れたものの2位になり、シーズン前の不安を一掃する結果を残した。

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