アントニオ猪木が生前に語った、アリ戦での挫折を救ったタクシー運転手の言葉と「引き分けでよかった」理由

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Belga Image/アフロ

 この一戦は1975年3月7日、サンケイスポーツにアリが「東洋人で俺に挑戦する者はいないか。ボクサーでもレスラーでも空手家でも誰でもいい」と発言した記事を、猪木さんが本気で捉えたことが発端だった。プロレスラーがボクサーと試合、しかも当時、あらゆる世界のスポーツ界でカリスマ的な存在だったアリに挑戦することなど常人では考えつかない発想だった。猪木さんは生前、アリ戦に挑む動機をこう明かしていた。

「あの発言はアリのパフォーマンスだったと思う。恐らく誰も真剣に捉えるヤツはいないと思っていたんだろう。でも、俺は当時、『アリが世界で一番強い』という評価を聞いて火がついた。強いのは俺たちだと思ってましたから。『だったらやってやろうじゃん』と、後先も考えずに突っ走ったんですよ」

 もうひとつの理由として、力道山時代からのプロレスに対する「八百長」「ショー」「インチキ」といった揶揄、誹謗中傷などへの反抗もあった。

「野球の『黒い霧事件』とか、騒ぎがあるごとにプロレスが引き合いに出されてね。俺は命がけで闘っているわけで、自分の仕事をバカにされたら黙っていられなかった。同時に俺の中で、そういう声を受けての劣等感みたいなものもあった。ただ、劣等感って大事でね。それがバネになることもある。プロレスの地位を確立したい思いもあった。アリ戦へ動いたのは、そんな部分もありました」

 誰もが実現を信じていなかったアリとの一戦は、当時のマネージャーだった新間寿氏、通訳を務めたケン田島氏、副社長の坂口征二氏らの理解とバックアップを得て実現に至る。

 しかし、来日したアリ陣営から過酷なルールを突きつけられた。上半身へのキック、チョップ、投げ技などほとんどの技が禁止。要望を飲めないのならば、試合をキャンセルして帰国することを通告された。ただ、がんじがらめの制約を猪木さんはすべて受け入れた。その時の思いをこう明かす。

「俺は『全部、飲む』と受け入れた。俺にとっての一番のダメージは、アリがアメリカへ帰ってしまうことでね。あの時、悪口を書きたいヤツは山ほどいて、アリが帰れば『ほら、みろ、ざまぁみろ』と言われるのが目に見えていたから。とにかくアリをリングへ上げることが第一だった」

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