ハンセンがいきなり全日本のリングに。ホーガンの移籍ドタキャンで結成されたブロディとの「最強タッグ」 (4ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Tokyo Sports/AFLO

 ハンセンの全日本参戦で、タッグを組んだのがブロディだった。「2人とも控室では、リング上とは違って物静かだった」と和田は振り返る。ただ、ブロディには近寄りがたいオーラがあったという。

「ブロディは、ひとり静かに読書していることが多くて、近寄りづらい雰囲気がありました。試合前にコーヒーを持っていくと、ほとんどの外国人選手は喜んで反応してくれるんだけど、ブロディだけは笑顔もなかったですね。

 そして試合では、理にかなわないことは一切、受けつけなかった。自分より体が小さい相手には絶対に投げられなかったし。だから、ミル・マスカラスが飛んできても、キャッチして投げ飛ばしちゃう。『そんな子供だましやれるか』っていうプライドでしょう」

 ブロディは全日本のトップ外国人レスラーとして活躍したが、1985年4月に新日本に引き抜かれる。しかし、新日本では試合をボイコットするなどトラブルが連続して、1987年10月に全日本へ復帰する。

 和田が忘れられないのは、翌年3月27日、日本武道館でジャンボ鶴田のインターナショナルヘビー級王座に挑戦した試合だった。勝ったブロディがうれしさのあまり、リング上で人目をはばかることなく涙を流したのだ。

「チャンピオンは許された者しかなれないので、一度裏切って新日本に行った自分がジャンボに勝ち、ベルトを巻けるなんて思っていなかったんでしょう。馬場さんは、裏切ったブロディのことを、それだけ認めていたんですね。ブロディはその思いがうれしくて、あの涙になったと思います」

 しかし、その試合から約4カ月後の1988年7月17日――。プエルトリコでの試合後の控室でレスラーに刺されたことが原因で、ブロディは42歳の若さでこの世を去った。

 親友のハンセンは、ブロディ亡きあとも全日本マットに参戦を続け、2001年1月28日、東京ドーム大会で引退式を行なった。「ミラクルパワーコンビ」と謳われたハンセン&ブロディのタッグを、和田は「間違いなく全日本の歴史の中で最強タッグでした。あれだけ、すごいタッグチームはもう2度と出てこないでしょう」と目を細めた。

(=敬称略)

(三沢、ジャンボ......伝説の名勝負3選>>)

■和田京平(わだ・きょうへい)
1954年11月20日生まれ。東京都出身。さまざまな職業を経たあと、1972年に全日本プロレスにリング設営スタッフとして参加。1974年レフェリーとしてデビュー。1986年には、東京スポーツ新聞社が制定する「プロレス大賞」で「優秀レフェリー賞」を受賞した。2011年6月に一度は全日本を離脱するも、2013年6月に「名誉レフェリー」として復帰した。

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