「プロ」の悪役だったブッチャー。凶器攻撃はレフェリーとのアイコンタクトで発動した (4ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Tokyo Sports/AFLO

 来日を重ねるごとに、リング上だけでなく、映画に出演するなど大衆にも人気が浸透していった。しかし人気絶頂の1981年5月にライバルの新日本プロレスへ引き抜かれた。和田はその時の馬場の心情を、「あれだけブッチャーを大きくしたのは全日本だから、ショックだっただろうし、悲しかっただろうね」と推察する。

 ただ、ブッチャーは新日本で輝きを失っていき、1987年11月の「世界最強タッグ」で再び全日本へ復帰した。

「馬場さんは"裏切った"選手は絶対に戻さないし、ブッチャーからも何度も頼まれていたのに断っていた。それでも最終的に戻ることを許したわけですから、馬場さんにとってブッチャーは特別な存在だったのかもしれません」

 ブッチャーは、2019年2月19日、両国国技館で開催された「ジャイアント馬場没後20年追善興行」で引退式を行なった。馬場とブッチャーは、いつまでも特別な縁で結ばれていた。

(=敬称略)

(第4回:私生活は対照的だったザ・ファンクスとハーリー・レイス>>)

■和田京平(わだ・きょうへい)
1954年11月20日生まれ。東京都出身。さまざまな職業を経たあと、1972年に全日本プロレスにリング設営スタッフとして参加。1974年レフェリーとしてデビュー。1986年には、東京スポーツ新聞社が制定する「プロレス大賞」で「優秀レフェリー賞」を受賞した。2011年6月に一度は全日本を離脱するも、2013年6月に「名誉レフェリー」として復帰した。

4 / 4

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る