マスカラスが投げたマスク争奪戦の裏側。ジャンケンに勝ったファンに「今すぐ逃げろ」

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Kimura Moritsuna/AFLO

「どこの試合だったかは忘れたけど、昼間は暇だったから外をブラブラ歩いていたんです。そうしたら向こうから、体格がよくて、モデルみたいにスラッとして背筋が伸びた歩き方をしている外国人が近づいてきて。僕が『ガタイのいい外国人だな』と思っていたら、すれ違った時に、俺に向かってウインクしたんだよね。

 それで『あれ、なんでウインクするんだろう? 俺のことを知っているのかな』と考えて、『あれは、マスカラスだ!』とピンときたんです。本人に確かめてはいませんが、あれは間違いなくマスカラスだったと確信しています。素顔はカッコよかったですよ」

 素顔を隠したマスカラスだったが、女性にかなりモテた。

「全日本へ参戦するようになってから、地方ごとに違う女性が必ず会場に来るのが目につくようになってね。『あの人、また来ているな』って思っていると、試合が終わったらマスカラスと一緒に帰っていく。こっちは、『あぁそういうことか』とも思ったけど、うらやましかったですよ(笑)。マスカラスはモテたなぁ」

 子供と女性のハートをわしづかみにしたマスカラスは、来日そのものが全日本の"夏の風物詩"になっていた。しかし、1980年代に入ると徐々にピークが過ぎていく。

「忘れられないのが、弟とのドス・カラスとタッグを組んで出場した1983年の世界最強タッグ。スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディと対戦したんだけど、空中殺法をあまり受けてもらえなくてね。試合が終わったあとに控室で泣いていましたよ」

 ハンセンとブロディのパワーに屈したその試合以降、来日は少なくなっていき、またアメリカを中心に活躍。一部のプロレス関係者の間では、「プライドが高い」「プロレスが独りよがり」という声もあったようだが、数年おきに日本の興行にも参加していた。

 2019年2月19日には、両国国技館で行なわれた「ジャイアント馬場没後20年追善興行」にも参戦。ドス・カラスとのタッグで勝利を収めるなど元気な姿を披露した。

「一部ではいろいろ言われることもあったようだけど、俺は嫌いじゃなかったよ。今はコロナ禍で大変だけど、変わらずに元気だったらまた日本に来て、マスクを客席に投げてほしいね」

(=敬称略)

(第3回:ブッチャーの凶器攻撃はレフェリーとのアイコンタクトで発動した>>)

■和田京平(わだ・きょうへい)
1954年11月20日生まれ。東京都出身。さまざまな職業を経たあと、1972年に全日本プロレスにリング設営スタッフとして参加。1974年レフェリーとしてデビュー。1986年には、東京スポーツ新聞社が制定する「プロレス大賞」で「優秀レフェリー賞」を受賞した。2011年6月に一度は全日本を離脱するも、2013年6月に「名誉レフェリー」として復帰した。

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