シャワー室で「ボク、デストロイヤー」。全日本レフェリーが目撃した「白覆面の魔王」の素顔

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Kimura Moritsuna/AFLO

 デストロイヤーは日本で生活する際、絶対に人前で覆面を脱がなかった。和田は1974年からレフェリーになったが、ある時、それまで一度も見たことがなかった素顔を偶然目撃してしまう。

「たぶん後楽園ホールだったと思うんだけど、試合が終わってシャワー室をのぞいたら、知らない外国人のおっさんがシャワーを浴びていて。『誰だ、このおっさん』と思ったら、向こうも俺が怪しんでいるのがわかったんでしょうね。目が合った時に『ボク、デストロイヤー』と言われて、俺もビックリして目が点になったよ(笑)。当時、パンフレットを売っている人に似ていたかな。『デストロイヤーの素顔っておっさんだったのか』って思いました」

 ただ、絶対に外では覆面を脱がなかったデストロイヤー。それには、ある"狙い"も隠されていたという。

「素顔だと町の人は誰も気づかない。例えば、飲食店に入ってもサービスされないんですが、マスクを被れば違うわけです。車を運転する時も必ずマスクをしていましたね。高速道路に入る時に、料金所の係員に『ボク、デストロイヤーです』と言うと通してもらえたんですよ(笑)。今の時代では信じられないだろうけど、本当の話。愛車は真っ赤なホンダのシビックで、俺が助手席に乗せてもらった時も、本当にそうやって料金所を通過していましたからね」

 1979年まで全日本にレギュラー参戦したデストロイヤー。その後も定期的に来日し、1993年7月29日に日本武道館で引退試合を行なった。引退後も、2011年の東日本大震災の際にはチャリティーの興行で特別立会人を務めるなど、日本での活動も継続した。

 2017年には日米の友好親善に貢献した実績が評価され、秋の叙勲で「旭日双光章」を受章。文化の懸け橋として多大な功績を残したデストロイヤーは、2019年3月7日に88歳で生涯を閉じた。

「全日本が旗揚げして間もなくは、馬場さんしか"看板"がいなくて、団体として苦しい時期だった。その時にデストロイヤーが、家族と一緒に日本に移住してくれて助けてくれたことは、全日本の歴史を振り返る上で絶大な功績です。彼の存在なくして、その後の全日本はないと言ってもいいくらい。リング上では、しっかりしたレスリングでファンをうならせ、素顔は茶目っ気があった。デストロイヤーは忘れられないレスラーです」

(=敬称略)

(第2回:ミル・マスカラスが投げたマスク争奪戦の裏側>>)

■和田京平(わだ・きょうへい)
1954年11月20日生まれ。東京都出身。さまざまな職業を経たあと、1972年に全日本プロレスにリング設営スタッフとして参加。1974年レフェリーとしてデビュー。1986年には、東京スポーツ新聞社が制定する「プロレス大賞」で「優秀レフェリー賞」を受賞した。2011年6月に一度は全日本を離脱するも、2013年6月に「名誉レフェリー」として復帰した。

3 / 3

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る