藤波辰爾に突然ジャンボ鶴田からの電話。食事の約束もまさかの事態で実現しなかった (3ページ目)

「全日本はライバル団体でしたし、鶴田さんとはほとんど顔を合わせたこともなかったと思います。トリオを組んだこの試合は、やっぱり緊張感がありました。試合前もそんなに話はしなくて、ごく普通の日常会話くらいでしたね」

 その後、藤波は猪木、鶴田は馬場の後継者として団体の屋台骨を支えた。ただ、2人がリング上で邂逅したのは、この夢のオールスター戦の1度きりだった。

 鶴田は天龍源一郎との"鶴龍対決"で多くの熱戦を演じ、さらには三沢光晴ら「超世代軍」の選手たちの壁となって、馬場が第一線を退いたあとの全日本を活性化させた。しかし、1992年11月にB型肝炎を発症したことを公表してメインイベンターの座を降り、1999年3月に47歳で現役を引退した。

 病気を公表したあとの鶴田は、筑波大大学院に合格。非常勤講師として教壇に立った。引退時のセレモニーでは米国オレゴン州のポートランド州立大学に赴任することを明かし、教育者として第2の人生を送ることになった。

 引退した翌2000年の年明け、藤波の自宅に、アメリカにいる鶴田から突然電話がかかってきたという。

「ほとんど会ったことがなくて電話番号も教えていなかったから、本当に驚きましたね。その電話で鶴田さんは、『どうしても話がしたくて。今度、日本に帰った時にご飯でも行きましょう』と提案してくれました」

 藤波は快諾し、再会の時を心待ちにしていたが......電話からわずか4カ月後の5月13日、鶴田はフィリピンのマニラで行なっていた肝臓の移植手術中に急逝した。49歳だった。

「亡くなったことを聞いた時はショックで言葉が出ませんでした。電話で話をしたばかりだったから、なおさら......。今も、『鶴田さんは、自分と会って何を話したかったんだろう』と、時々思い出すことがありますよ」

(第7回:名勝負を演じた外国人レスラーたち>>)

■藤波辰爾が主宰する「ドラディション」は、『THE NEVER GIVE UP TOUR』と銘打ち、デビュー50周年記念ツアーを今秋からスタートすることを決定。
第一弾・・・10月31日@大阪・南港ATCホール 11月9日@東京・後楽園ホール
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