闘魂三銃士が生んだブームと混乱。藤波辰爾は真夜中のファミレスにどん底だった橋本真也を呼んだ

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Tokyo Sports/AFLO

 試合から間もなく、橋本は「他の選手と別行動で動きたい」と要望する。それを聞いた藤波にはあるアイディアが浮かんだ。

「かつての自分と長州のように、新日本の伝統としてハプニングを興行に生かすところがあった。だから橋本の思いも受け入れて、かつて長州が率いた『維新軍』のように別動隊を結成して、新日本の本隊と対決させることを考えたんです」

 そうして橋本は、独立組織「ZERO」を発足させ、専用の道場も用意させた。しかし、橋本は藤波の考えから逸脱し、新日本の許可なく三沢光晴が率いる「プロレスリング・ノア」との対抗戦に動くなど規律を破ったことによって、同年11月に解雇になった。

 新日本は橋本を解雇した2カ月後の2001年1月4日、解雇に至る過程で遺恨が露わになった長州との一騎打ちを組んだ。藤波は実況席でゲスト解説を務めたが、両者はまったく譲らずに激しい打撃戦になったため、途中でリングに上がって「我々は殺し合いをしているんじゃない!わかってください!」とファンに訴えて試合を止めた。のちにこの行動は「ドラゴンストップ」と呼ばれた。

「ファンは不満だったでしょうけど、あれ以上やらせると、どちらかが重いケガをする危険がありました。橋本も長州も大切な選手ですから、僕は止めるしかありませんでした」

 橋本は、自らの団体を「ZERO-ONE」と改称し、2001年3月2日に両国国技館で旗揚げ戦を行なう。しかし団体の運営は厳しく、3年後の2004年に活動を停止。橋本はフリーになり、古傷だった右肩の手術とリハビリを行なっていたが、翌2005年7月11日に突然この世を去った。プロレス界は、あまりに惜しい巨星を失った。

「本当にショックでした。本来はもっと活躍できたし、プロレス界全体にさまざまな影響を与えることができる選手だった。レスラーであれば誰もが、自分の団体を持つ野望があるもの。ただ、実際に経営するとなると、見えない部分の苦労は大きいんです。橋本も、そこに苦しんだのかもしれませんね」

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