藤波辰爾「一歩間違ったらレスラー生命が終わっていた」。前田日明との失明寸前の激闘 (3ページ目)

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Moritsuna Kimura/AFLO

 藤波は、自らの存在をファンに示すためにスタイルを崩せない前田を理解し、技を受け続けた。その覚悟が伝説の死闘を生んだ。

「前田も、いつかのインタビューで『蹴っても蹴っても立ち上がってくるから、どうしようかと思った』と答えていましたね。ファンも同じように、僕が立ち上がってくることに驚いたんじゃないでしょうか。あんな猛攻を、どうして耐えられたのかは自分でもわかりません。ただ、危険な試合だったけど、ファンの反応を見る限り、前田と試合をやったことは正解だったと思っています。『あの緊張感が新日本プロレスなんだ』と、伝えることができたと思うので」

 その死闘後も、新日本とUWFの選手が噛み合うことはなかった。翌年1月には険悪なムードを和らげようと、副社長の坂口征二が巡業中の熊本の旅館で試合後に宴席を開く。だが、ここで前田と武藤敬司が殴り合いをはじめたことが発端となり、旅館のトイレや大広間の壁などを破壊する事件が発生した。

「あの時は、自分は乾杯だけしてロビーにいたんだけど、階段から水が流れてきて。なんだろうと思いましたよ(笑)」

 これまで、さまざまなレスラーや関係者が「熊本旅館破壊事件」について証言しているが、親睦会が乱闘に発展するほど、新日本とUWFのプロレスへの考えはかけ離れていた。

 徹底して自らのスタイルと信念を曲げなかった前田は、1987年11月19日、後楽園ホールでの6人タッグマッチで長州力の顔面を蹴り、眼窩底骨折を負わせたことが原因で新日本プロレスを解雇された。

「前田の考えや試合を見ていて、いずれはそういうことが起きると思っていました。僕と試合をした時もそうですけど、前田は前田なりの考えと、UWFの理想を守ろうとしたんだと思います。それを貫いたから、多くのファンから支持を得ることができたんでしょう」

3 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る