新日本プロレスに負の連鎖→藤波辰爾がアントニオ猪木に反旗。師匠を迎え撃った伝説の一戦

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Yukio Hiraku/AFLO

藤波辰爾デビュー50周年
ドラゴンが語る名レスラーたち(2)アントニオ猪木 後編 前編を読む>>

 今年の5月9日にデビュー50周年を迎え、現在も自らが主宰する「ドラディション」を中心にメインイベンターとして戦い続ける藤波辰爾。プロレス人生で忘れ得ぬレスラーたちとの秘話を明かす連載の第2回は、前回に続いてアントニオ猪木。師匠である猪木に反旗を翻した"飛龍革命"と、人生最高のベストバウトについて語った。

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1988年にシングルマッチを行なった猪木(左)と藤波(右)1988年にシングルマッチを行なった猪木(左)と藤波(右) デビュー前にアントニオ猪木の付け人を務めた藤波にとって、「プロレスは闘いである」という猪木のプロレスへの姿勢、存在こそが原点だった。常にその背中を追っていたが、公然と反旗を翻した時があった。

 それは1988年4月22日、沖縄・那覇市の奥武山体育館大会でのことだった。猪木と組んだ藤波は、ビッグバン・ベイダー、マサ斎藤組と対戦。試合は反則勝ちを収めたものの、当時45歳の猪木がベイダーのパワーに対応できないことを露呈した一戦だった。

 試合後、藤波は猪木へ怒りを爆発させて体制変革を訴えた。ハサミで自分の前髪を切ったことでも有名な、"飛龍革命"と呼ばれたこの行動を、藤波は「たまっていたものが爆発したんです」と振り返る。

 当時の新日本プロレスは低迷期に入っていた。前年の1987年5月に、一度は全日本プロレスに移籍した長州力らがUターン復帰したが、徐々に下がっていた「ワールドプロレスリング」の視聴率は上がらず。結果、1973年4月から夜8時のゴールデンタイムで放送されてきた同番組が1988年3月いっぱいで打ち切られ、東京地区での土曜日の夕方に"格下げ"になった。放映権料は引き下げられ、経営は苦境に陥った。

 また、1987年11月の試合中に長州の顔面を蹴ったことで新日本を解雇された前田日明が、1988年4月に「新生UWF」を設立。新日本プロレスを支持していたファンは前田の「強さ」に傾倒していく。さらに、1987年の12月27日に行なわれた両国国技館大会では、ビートたけし率いるプロレス軍団「TPG」が登場し、予定されていた猪木と長州の一騎打ちをリング上で覆す事件が起きる。ファンは怒りを爆発させ、大暴動が起きるなど負の連鎖は止まらなかった。

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