藤波辰爾に起こった試合直前の流血事件。アントニオ猪木はあえてドラゴンを殴った (3ページ目)

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Yukio Hiraku/AFLO

 今も同じ場所にある新日本プロレス道場と合宿所は、猪木の自宅を解体して作ったもの。それが完成するまでの約1カ月間、藤波も工事を手伝ったという。

「『レスラーなのに、どうして工事の手伝いを......』なんて考えは微塵もありませんでした。自分たちの手で理想の道場を作っているワクワク感しかなかったです」

 そうして1972年3月6日に、新日本プロレスは大田区体育館で旗揚げ戦を迎える。しかし、所属選手はたった6人。人気外国人レスラーを招聘するルートは日本プロレスに妨害され、経営の生命線だったテレビ局の放送もない新団体の興行は、各地で苦戦の連続だった。

 選手の中で一番の若手だった藤波は、詳しい経営状況まではわからなかったが、空席が目立つ客席を見て苦境を感じていた。そんな旗揚げ1年目の唯一の光は、やはり猪木のファイトだった。

「1年目は社長の猪木さんも切符を手売りして、営業もしていましたから、肉体的にも精神的にも厳しかったと思います。だけど、そんなつらさをリング上で見せたことはなかった。どんなにお客さんがいなくても、一切、手を抜きませんでした。あの姿を見て、『自分も気を抜いた試合はできない』と思いましたし、猪木さんがこれだけの試合をやるんだから、きっとお客さんが振り向いてくれる日が来ると信じていました」

 そんな新日本プロレスに転機が訪れたのは、旗揚げ2年目の1973年3月だった。坂口征二と数人の若手レスラーが、日本プロレスを退団して加入。猪木に続く大物選手の合流で、翌4月からはNET(現テレビ朝日)が毎週金曜夜8時の中継をスタートする。

 これで団体が軌道に乗る――。

 そう直感した藤波は、1975年6月から西ドイツ(現ドイツ)へ初めての海外遠征に出発。1978年1月23日には、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでドラゴンスープレックスを初公開して勝利し、WWWF世界ジュニアヘビー級王座を奪取した。同年3月に凱旋帰国し、群馬・高崎市民体育館でのマスクド・カナディアン戦も華やかに勝利すると、空前のドラゴンブームが起こった。

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