藤波辰爾に起こった試合直前の流血事件。アントニオ猪木はあえてドラゴンを殴った (2ページ目)

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Yukio Hiraku/AFLO

 巡業で地方を回ったあとに初めて上京し、代官山にあった日本プロレスの事務所で幹部との面談を経て、練習生として入門を認められた。入門後の役割は猪木の「付け人」。長きに渡る師弟関係の始まりだった。

「猪木さんは、あまり『こうしろ、ああしろ』とは言わない人で、生活面で怒られた記憶はほとんどありません。ただ、練習は激しかったですね。トップレスラーの猪木さんがものすごく練習している姿を見て、『やっぱり一流のレスラーは違うんだ』と思いました」

 入門から約11か月後、藤波は「何をやったのかまったく覚えていない」というプロレスデビューを果たすのだが、その1971年の暮れに激震に見舞われる。猪木が「会社の乗っ取りを企てた」として日本プロレスから追放されたのだ。

「猪木さんは、会社を改善しようと動いていたんです。最初は(ジャイアント)馬場さんをはじめ、選手たちも賛同していたんですが......。ボタンの掛け違えというか、どこかで方向性が変わって、猪木さんだけが取り残された形になってしまいました」

 猪木の追放を発表する記者会見を、藤波は記者席の一番うしろで立ったまま見つめていた。その茫然とした姿の写真が新聞に掲載され、それを見た猪木は「俺のところに来い」と藤波を誘った。

 猪木は追放後すぐに新団体、新日本プロレスの設立に動いていた。自らの理想を実現するために「付け人」だった藤波を呼んだのだ。藤波は日本プロレスを退団し、師匠のもとに駆けつけた。

「猪木さんについていけば『自分がやりたいプロレスができる』と思っていましたから、まったく迷いはなかったですよ」

 そこで驚いたのは、猪木の大胆な行動だ。

「『レスラーにとって大切なのは、何よりも練習だ』という考えの人だったので、真っ先に道場を作らなければいけないと、世田谷の野毛にある自宅の庭を潰し、プレハブの道場を突貫工事で作ったんです。当時の猪木さんは30歳手前で血気盛んでしたから、とにかく思い立ったことをすぐにやる。後先考えずに突き進んでいました(笑)」

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