藤波辰爾に起こった試合直前の流血事件。アントニオ猪木はあえてドラゴンを殴った

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Yukio Hiraku/AFLO

藤波辰爾デビュー50周年
ドラゴンが語る名レスラーたち(1)アントニオ猪木 前編

 プロレスラーの藤波辰爾がデビュー50周年を迎えた。

 日本プロレスに入門した翌年の1971年5月9日、岐阜市民センターでの北沢幹之(当時のリングネームは新海弘勝)戦でデビュー。翌年の1月には、アントニオ猪木が設立した新日本プロレスに旗揚げから参加し、ジュニアヘビー級で"ドラゴンブーム"を巻き起こした。

 リング外では、新日本プロレスの社長を務めるなどプロレス界を牽引。67歳になった現在も、自らが主宰する「ドラディション」を中心に、メインイベンターとして戦いを続けている。

 今回、藤波が半世紀に渡るプロレス人生で忘れ得ぬレスラーたちとの秘話を明かした。そのひとり目は、師匠のアントニオ猪木。新日本プロレス立ち上げ時の状況や、藤波も戸惑った指導を振り返る。

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1984年のMSG タッグリーグ戦で優勝した、猪木(左)と藤波(右)1984年のMSG タッグリーグ戦で優勝した、猪木(左)と藤波(右) 藤波が猪木と出会ったのは1970年6月16日。山口県の下関市体育館だった。

 中学を卒業し、自動車整備士になるために職業訓練校に通っていたが、藤波はプロレスラーになる夢を捨てきれずにいた。そこで、出身地が同じ大分県東国東郡(現・国東市)だった北沢幹之を訪ね、日本プロレスへの入門を志願。北沢の許可を得て巡業に加わった。

 藤波にとって猪木は、テレビで見ていた憧れのレスラー。北沢に連れられて下関市体育館の控室で猪木に紹介された時、緊張で顔を見ることができなかったという。

「目の前に、憧れていた猪木さんがいるのが信じられなくて。実際に会うとオーラが凄まじかったですし、『藤波です。よろしくお願いします』って挨拶するのが精いっぱい。確か、猪木さんには『頑張れよ』とだけ言われたんじゃないかな。顔なんて満足に見られず、とにかく緊張していたことだけを今も覚えています」

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