アントニオ猪木とジャイアント馬場。
待遇の差と不信感が「闘魂」を育てた

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Kimura Moritsuna/AFLO

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 猪木は馬場という巨大な存在によって「約束」を知ることになった。馬場はデビューから1年後、当時は"将来のスターのイス"が約束されたアメリカへの武者修行に出る。1963年3月に凱旋帰国するとメインイベンターに抜擢され、同年12月15日に力道山が39歳で急逝したあとは「日本プロレスのエース」に君臨した。

 一方の猪木は、力道山の存命中は一貫して付け人を務める「前座レスラー」という待遇だった。海外修行で海を渡るのも、力道山の死後となる1964年4月だ。

 デビュー当時からあからさまだった馬場との待遇の差と、プロレスへの不信感。しかし、こうした不遇が「今に見ていろ」という"闘魂"を育て、リング上では相手にやられても這い上がる猪木独自のプロレススタイルを作り上げた。

 以前に行なった『週刊プレイボーイ』(集英社)のインタビューで、猪木は馬場の存在を「合わせ鏡」と表現した。

「馬場さんは、あの体格で存在感はすごかった。ただ、道場での練習はスクワットの回数なんかもごまかしていたし、ズバリ言えば、『ああいう風にはなりたくない』と思わせてくれた存在だった。馬場さんを合わせ鏡にして、俺自身がレスラーとしてどうあるべきかを考えた時に、見えてきた姿があった」

 1972年3月6日には猪木が新日本プロレスを旗揚げし、同年10月21日には馬場が全日本プロレスを旗揚げするなど、ライバル団体として熾烈な興行戦争も繰り広げた。著書『猪木力』の中でも「(日本プロレス時代も)あの人を見るたび、『俺は違うぜ』と思っていた。それは新日本プロレスを旗揚げしてからも同じ思いで、馬場さんの全日本があったからこそ、自分の足元を見つめることができた。あの存在はありがたかった」と明かしている。

 その言葉どおり、猪木は新日本プロレスで馬場にはできない興行を企画していった。ボクシング世界ヘビー級王者のモハメド・アリ戦を筆頭に、世間を驚かせる、歴史に残る試合に次々と挑んだ。

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